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「不思議な11時間とNシステム」今市事件(4)

 Nシステムの記録について、情況証拠として採用されたのは以下の内容だ。
・Nシステムによる通行記録に勝又受刑者(の車)が3地点を通行した記録が残されていた。
・他の日については12月6日の深夜から朝にかけて通行した記録のみである。
・記録があった2地点は、勝又受刑者宅と遺体発見現場とを結ぶ経路上にある。
・平成11年頃から平成14年頃までの間、母とともに茨城県内で開催される骨董市に宇都宮市から月1回の頻度で通っていた。その経路は遺体発見現場に近い場所を通過するものだった。
・当時、勝又受刑者が第三者に車両を貸したことはない。

 これらの内容は、どうやら女児が行方不明になった次の日(遺体が遺棄されたと考えられる日)の深夜に勝又受刑囚が遺体遺棄現場の近くを車でウロウロしていたと言いたいようだ。さらに、遺棄現場から20kmほど東にある骨董市が行われていた寺院(一乗院)に行っていた過去があることから、遺棄現場の土地勘がある風なニュアンスを伝えてきている。
 Nシステムとは、自動車ナンバー自動読取装置のことで、NはNumberの頭文字である。これは高速道路や幹線道路に設置されたカメラで、通過した車両の情報を自動で記録する装置である。

 重大な事件が発生した際にはその必要性により有人で検問を行うことがあるが、それだけでは全車両を確認することは到底不可能だ。無人でなおかつすべての車両を見逃さないようにするために開発されたシステムであり、いわば電子検問のようなものだ。
 Nシステムを通過した車両は全て自動で記録され、警察の手配車両リストと自動的に照会されている。主に自動車窃盗や手配車両の監視、自動車利用犯罪の被疑者の追跡などで用いられ、重要犯罪等発生時は不審車両の洗い出しにも使われる。取得されたデータは一定期間(30年間)保存され、データ検索も可能だ。
 公判でNシステムの記録が使われるのは異例だったそうだが、勝又受刑者は以下のような記録を残していたとされる。

平成17年12月2日午前1時50分頃
 宇都宮市i町の県道宇都宮楡木線(第1地点)を宇都宮市街方向へ
同日午前2時20分頃
 同市j町の国道123号線上の特定の地点(第2地点)をk町方向へ走行
同日午前6時12分頃
 同地点を宇都宮市街方向へ
同日午前6時27分頃
 同市m町の国道121号線上の地点(第3地点)を鹿沼市方向へ
同日午前6時39分頃
 第1地点を鹿沼市方向へ

 これらの情報と実際のNシステムの位置関係を地図に表すと以下のようになる。

 なお、これ以外に被告人車両による第2地点の通行記録は、同月6日の深夜から朝にかけて通行したもの以外には全く存在しないらしい。
 上記第1ないし第3地点は、当時の被告人方と遺体発見現場とを結ぶ経路上にあり、被告人自宅から第1、第2地点を経由した遺体発見現場までの自動車での所要時間は、同一時間帯に実施した再現実験において約1時間47分(約78.7キロメートル)であった。
 また勝又受刑者は、実母とともに平成11年頃(1999年)から平成14年頃(2002年)までの間、茨城県那珂市にある一乗院で開催される骨董市に宇都宮市から月1回程度の頻度で通っており、その際の経路は、第2地点や遺体発見現場に近い場所を通過するものであった。
 事件とNシステムの情報の関連性について、弁護側は次のように言っている。

 仮にNシステムによる通行記録が正確であったとしても,原審甲208号証から読み取ることができるのは、被告人車両が、平成17年12月2日午前2時20分にj町をk町方面に通過し、その後、同日午前6時12分に同町を宇都宮市街方面に通過したという事実にすぎない。この事実から被告人がj町から40キロメー トル以上離れた遺体発見現場に行ったという事実を推認することはできない(中略)Nシステムは昭和56年から約5年間、延べ数千人がその開発に従事し昭和61年度から導入され、その仕組みは全て機械的、自動的に処理されるものであるから、その信頼性には何らの疑念も見いだしていない。

平成28年(う)第983号

 全くもってその通り。いかにも深夜に遺体を遺棄しに行ったかのように見えるが、事実はただ通ったというだけだ。遺体遺棄現場との関連性についても、そもそも車に遺体が乗っていたのかも、実は何ら証明はできていない。
 それに対して検察側は「土地鑑もありそうだし、時間内に遺棄現場に行けるじゃーん」と反論している。

 当時の被告人方から遺体発見現場までは鹿沼インター通り、宇都宮環状線北周り、国道123号線等を経由した場合、約78.7キロメートルであり、 計測実験によれば、自動車での所要時間は1時間47分で、被告人車両は、第2地点を、東方向に平成17年12月2日午前2時20分、西方向に同日午前6時12分にそれぞれ通過しており、その間の3時間52分以内に第2地点と遺体発見現場を往復することは十分可能である。

平成28年(う)第983号

 確かに、犯行は可能だ。おそらく午前1時過ぎに自宅を出発し、6時ごろに帰途に着いたが、そのうちの4時間は移動だ。まあ確かに犯行は可能ではあるが、遺棄現場で残された時間はおそらく1時間もないだろう。なんなら、殺害時刻は午前4時ごろとされており、現地に到着次第すぐに行動に移さないと、間に合わない。ちなみに、裁判ではNシステムの生のデータは開示されていない。
 というか、単純な疑問が湧く。
 この事件、拉致・誘拐されたのは問題の三叉路からとされている。
 12月1日は4時間目に授業が終わり、給食を食べ14時15分頃に下校、14時30分ごろに三叉路付近で友達と別れた。そして14時30分過ぎに問題の三叉路付近で誘拐されたことになっている。それから、犯人が行動を起こしたのは日が明けた12月2日である。
 それまで女児は拘束され生きていたことになる。その間11時間、何もせずに監禁していたということになる。なんなら被害女児には性被害もない。11時間もの間、いったいどこで何をしていたのだろうか。しかも、女児の胃の内容物から考えると殺害は12月1日17時ごろの可能性が高いとされている。
 矛盾がある上に、行動が不可解すぎる。

 女児が行方不明となり、遺体となって発見されるまでに勝又受刑者の行動として確実に事実として確認されているのは、12月1日の13時58分ごろに宇都宮市のレンタルショップで漫画を2冊返し、新たに2冊借りている。その後12月2日の15:32までにその2冊も返却している。検察は殺害・死体遺棄のための移動としているが、勝又受刑者は何をしていたと言っているのだろうか。
 さらに、単純な疑問も存在する。
 三叉路から鹿沼市もしくは遺体遺棄現場までのNシステムの記録がなぜ提出されていないのだろうか。これでは、家から遺体遺棄現場に行ったのか、三叉路から家に一度戻ったのかもさっぱりわからない。

 調べてみると、三叉路から遺体遺棄現場までも、自宅周辺から遺体遺棄現場までもどのルートにもNシステムは存在する。深夜の殺害・死体遺棄の際の移動には映りまくっているのに三叉路からは一体どうやって映らずに脱出したのか。
 なお、Nシステムの生データは開示されていない。そもそも、本当に映っていたのだろうか。この証拠、ちょっと雑すぎやしないだろうか。

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