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「偽装された2時間半」名張毒ぶどう酒殺人事件(前編)

 この事件は三重県名張市葛尾地区にある公民館で行われた地元の生活改善クラブ「三奈の会」の懇親会で、女性会員用に用意された葡萄酒の中に農薬が混入され、それを飲んだ女性会員のうち5人が死亡、12人に中毒症状が出た毒物による無差別殺傷事件である。

 この事件については犯人とされる奥西勝氏が逮捕されたが、冤罪が強く疑われており、現在も再審請求中である。これまでにすでに10回の再審請求が行われているが、ことごとく棄却されている。
 近年では2013年に弁護団は第8次再審請求申立てを行ったが、名古屋高裁は請求を棄却、さらに2015年に名古屋高裁は異議申立てを棄却した。その後特別抗告を申し立てるが、収監中の奥西氏の体調が思わしくなく、弁護団は特別抗告を取り下げる。その後第9次再審請求を申し立てたが、10月に収監中の奥西氏が死亡、訴訟手続の終了決定がされた。
 2015年、弁護団は奥西氏の妹を請求人として、第10次再審請求(死後再審)を申し立てるが、名古屋高裁は請求を棄却、異議申立ても棄却している。諦めずにその後も弁護団から最高裁に対して特別抗告申立てがなされたが、2024年、申立ては棄却されている。
 なお、私はこの事件の冤罪とされる部分について大きく触れない。この事件で逮捕された奥西氏は犯行を自白したことで有罪とされた。だが、記録されている事実からはどう考えても明らかに自白の強要が伺われる。そして、自白を元にした後付けの虚偽がいくつも存在する。現在も奥西氏の名誉と尊厳をかけた戦いを弁護団の方々は行っている。
 そのため、どういう理由で冤罪なのかなどについては多くは触れず、筆者がアクセスできる情報から真犯人について考えてみたい。なお余談だが、同じ不特定多数に向け無差別に毒物を混入したこの事件の構造は面白いほど和歌山毒物カレー混入事件とそっくりでもある。まずは、事件の経過である。

 昭和36年3月28日、三重県名張市葛尾地区の公民館で「三奈の会」という会の集まりがあり、その日は総会のあとに懇親会が行われた。懇親会には男性12人と女性19人、計31人が出席し、男性には清酒、女性には葡萄酒が振る舞われた。

事件当時の葛尾地区

 以下が大まかな事件の時系列である。(奥西氏以外の氏名は全て仮名である)
3月28日17時30分ごろ
 総会のため公民館に人が集まり始める。
19時
 役員の改選のための総会が開かれる。
20時
 総会が終わり、懇親会が開かれた。三奈の会男女31名のうち女性19名に葡萄酒が振舞われ、乾杯と共にそれを飲んだ16名が次々に嘔吐し気分不良を訴えて倒れ始めた(男性には清酒が振る舞われた)倒れる者が続出したため、地区の有線放送で家族が呼ばれ、公民館に集まり始める。この時この地域の唯一の医師は他の地区に往診中であった。
20時50分ごろ
 この地区に1軒だけある旅館「久田亭」から名張警察署に通報(一般電話はここにしかなかった)する。この頃、おそらく大石章子、奥西千鶴子、木田ユキ子、永山富美子、新谷啓の5名が死亡したとされる。名張署は警察医の桝田医師に連絡を取り、病院の救急車に乗り込んで葛尾に出発した。
21時40分ごろ
 名張署から地元医師会へ連絡を行い、医師の動員を依頼した。第1陣として2名の医師が警察車両で葛尾に出発した。
22時20分ごろ
 第2陣として計3名の医師が警察車両に乗り葛尾に出発した。到着した医師は患者を動かすことが危険と判断し、その場で点滴などの治療を始めた。
 名張署では署員全員に非常召集がかけられ、葛尾地区には事件を聞きつけた新聞記者が続々到着した。記者やカメラマンたちは土足で現場に上がり込み、写真を撮ったりフィルムを回し始めた。
3月29日朝
 葡萄酒を飲んだ12人が重い症状のため名張市内の病院に搬送された。懇親会に参加した女性の中で元気なのは酒に弱いため葡萄酒に手をつけなかった3人の女性だった。
 三重県警は毒物の特定を開始し、飲み残しの葡萄酒、吐瀉物、折り詰め弁当の検査・分析を開始する。
18時30分ごろ
 最初に死亡した2名を公民館前の共同墓地の一角で三重県立医科大学の舟木教授が司法解剖を行う。
3月30日0時
 毒物は「有機リン剤の農薬と思われる」と発表する。三重県衛生研究所でも調査が続けられる。

 その後、三重県警名張署には捜査本部が置かれ、大掛かりな捜査が始まった。清酒を出された男性と葡萄酒を飲まなかった女性3人に中毒症状が見られなかったことから、女性が飲んだ葡萄酒に原因があるとして三重県衛生研究所、三重県警察本部刑事部鑑識課で検査した結果、有機リン系のTEPP(テップ)が含まれた農薬が葡萄酒に混入されていることが判明した。

 毒物は葡萄酒に混入された疑いが強く、葡萄酒を家に保管した大石氏と、葡萄酒を購入した岩村氏、葡萄酒を会場まで運んだ奥西氏が重要参考人として事情聴取を受けた。

 この事情聴取により奥西氏には愛人(木田ユキ子)がおり、妻千鶴子と関係が悪化していた情報(妻も愛人もこの事件で死亡している)を掴んでいた捜査当局は奥西氏を犯人であるとの疑いを強め、厳しい追求をした。なお、裁判ではその動機は「三角関係の精算」とされている。
 その後軟禁状態で苛烈な取り調べを受けた奥西氏は自白を強要され、嘘の自白に基づき一審では無罪だったが二審では死刑判決が下される。拘置所に収監されたが死刑は執行されず、奥西氏は病気により獄中死した。
 奥西氏の自白内容は自白の強要によるものである疑いが強く、事実との整合性が全く取れていないデタラメな内容である。そのため逆に奥西氏の関わった内容は可能な限り省いて証拠や証言の内容を検討・妄想していきたい。


 三重県名張市葛尾は三重県と奈良県にまたがる山間部で、人口140人ほどの小さな集落である。事件当時の葛尾は娯楽に乏しく、総会に際して行われる懇親会は数少ない楽しみの一つだった。部落の人間関係は濃密で、親戚同士という家も多かった。
 事件の起こった1961年(昭和36年)はカラーテレビの登場や二槽式電気洗濯機などが登場し、高度経済成長期へ移っていく最中であった。「三奈の会」は生活改善クラブで、三重県、奈良県の頭文字を取って名付けられたもので、住民たちには「みんなの会」とも呼ばれていた。この会は毎月各戸が300円ずつ出し合い、くじを引いて当たった者が台所や便所の改善、電化製品の購入などをする決まりだった。この会は当時葛尾の18戸と奈良県山添村7戸の計25戸からなる男性12人、女性24人の合計36人の会員を持つ。
 19時から始まる総会は毎年3月下旬に行われる定期的なものだった。この懇親会では事件の2〜3年前から慣例として女性会員に葡萄酒が出されることになっていた。

問題の葡萄酒について
 犯行に使われた葡萄酒は1.8リットル瓶詰めの葡萄酒「三線ポートワイン」である。このワインは実は焼酎に葡萄味をつけたもので本当のワインではなく、その色は無色であった。

問題の葡萄酒

 この葡萄酒は大阪市浪速区西円手町にある「西川洋酒醸造所」において昭和35年1月7日に製造され、昭和36年1月16日瓶詰めされた。その後、名張市の酒類卸売業の商店を経て、30本が林商店に卸され、そのうちの1本を岩村氏が購入し、林商店から大石家まで届け、大石家で奥西氏が会場に届けるまで保管していた。
 昭和36年4月7日付け実況見分書では、事件後問題の葡萄酒の外観について「耳付き冠頭は発見時、耳の付け根の両惻の一部切れ目が入っている部分がいずれも切れて開口し、右側部分は大きく裂けるように開口し、左側部分は切れた先端部分が重なった状態になっており、耳の部分は、少しねじれたようになっているが真っ直ぐほぼ直線上に伸び、大きな持ち上がりや耳の先端部分反り返りはほとんどない状況にあり、封緘紙については、封緘紙破片大の右側と封緘紙破片小の左側の破れ目が符合する部分は、耳付き冠頭の耳の左縁に沿って弧を描くように切断されたとみられる状況にあったと認められる」とある。
 さらに、後に発見された王冠には人歯痕とみられる傷痕が多数残っていた。この葡萄酒は公民館で注がれる直前に開封されており、開封時に外観に異常はなかったようだ。
 事件の2〜3年前からの慣習として、総会の後に皆で懇親会が行われることになっていた。女子会員たちには葡萄酒が出されることになっており、仮にそれが出されないでもその代用として砂糖入りの熱燗が出されることになっていた。
 なお、この葡萄酒を林商店で購入し飲んだ他の家族には何も中毒症状は出ていない。つまりは、酒店の人間が混入された特別な葡萄酒を渡さない限りは、購入されてから混入されたことになる。

王冠(四つ足替栓)について
 王冠(問題の葡萄酒についていたとされる蓋)は公民館の囲炉裏の間の東、北隅片開き戸のついた押し入れ下段奥から発見された。この王冠には歯形のようなものが付いており、この歯形が奥西氏のもの一致したとされ、重要な証拠として扱われている。
 王冠の表面には傷がいくつもついており、一審判決では「一見して相当古い」「外側は至る所に錆を生じ、メッキが剥げている」とある。
 実は他にも10数個の王冠が公民館から見つかっており、実はこの押し入れから見つかった王冠が問題の葡萄酒のものかも断定されていない。公民館は婦人会や農協の寄り合いなどいろいろな会合でも使われていたのだ。

問題の王冠、左側に歯形が見える

 結局のところ、この王冠が問題の葡萄酒の王冠かはわからないため、実はこの王冠について議論する意味はあまりないもし、この錆びた王冠が問題の葡萄酒の王冠だとしても、蓋は懇親会の場で岩村氏が歯を使って開封しており、どう考えても着いた歯形は岩村氏のものだ。しかし、奥西氏の自白では公民館で歯で噛んで開封したとされ、なぜかこの王冠についた歯形は奥西氏のものなっている。
 この問題の王冠は開栓した翌日のものにしては錆がひどく、表面のメッキは剥げていた。捜査本部は事件に使われた葡萄酒を売った林商店から同時期に仕入れた葡萄酒48本を全て押収し、歯でかんで開ける実験をしている。実験で使った王冠を裁判で提出しているが、その王冠には問題の王冠と比べると内側に真鍮のメッキがなく、材料のブリキがやや厚かった。
 明らかに違う気がする。なんのこっちゃ。
 
そもそも問題の葡萄酒についていたかわからない王冠の歯形は、一審の鑑定書では類似しているとしたが、一致の断定はしていなかった。その後二審では大阪大学教授の松倉豊治による鑑定の結果、奥西氏の歯形と一致するとされた。
 この事件では6つの歯形の鑑定が提出されている。慶應大学の船尾助教授は「物体に作用する歯の力の方向、歯と物体間の抵抗の有無(特にすべり)及び物体の固定如何によって歯痕から個人識別は必ずしも容易ではない」とあり、岡山大学の三上教授の鑑定では、「歯形の個人識別方法として、歯と歯の間隔を測定する方法は困難で、その大部分が想像的鑑定に終わる」としている。つまりは「何かについた歯形の個人の特定はかなり無理があると思うよ」という意見である。
 一方、警察庁科学警察研究所は「奥西氏の歯形に類似している」とし、名古屋大学の古田教授も歯形は奥西氏のものであるとし、大阪大学の松倉教授の鑑定は「5ヶ所の傷が奥西氏の歯形と一致しており、現場にあった王冠の傷は奥西氏のものと認定できる」とした。結局のところ、この歯形の一致した鑑定が採用され、死刑に至る重要な証拠のひとつとされた。
 しかし、1988年に第5次後再審請求の弁護側の検証で日本大学歯学部の土生博義助教授による再鑑定では、シリコンラバーでレプリカを作成し分析した。すると王冠の傷の拡大写真と奥西氏が捜査で噛んだ王冠の傷の拡大写真の倍率が2倍も異なっていたことが判明した。さらに、三次元形状を作成すると傷の深さや角度が全く異なることがわかった。
 なんのこっちゃ(2回目)

倍率の2倍違う証拠写真

 王冠が問題の葡萄酒のものかもわからないわ、歯形は違うわ、それならこの王冠を証拠として使ってはいけないのではないかと普通に思う。

外栓(耳つき冠頭)について

 外栓は囲炉裏の間、西隣の四畳半の間にて火鉢の灰の中から発見されている。

 この外栓は王冠の周りをぐるりと囲んでいて、つまみ(耳)を引っ張ることで外栓が取れ、王冠を開けることができるものである。この耳は開封前は下側に瓶に沿って垂れており、その上をぐるりと封緘紙が貼られていた。この外栓は宴会の際に開けられたものということで見解は一致している。

封緘紙について
 封緘紙は開封をされていないことを証明するためのもので、開封前は糊付けされていた。この葡萄酒では、外栓の耳を隠すようにぐるりと巻いていたと思われる。封緘紙は2枚見つかっており、大きなものが囲炉裏の間、北東、北隅前記片開き戸の取り付け箇所より約56cm東南方の壁際から発見され、小さなものが囲炉裏の間、裏側の軒下に落ちているのが発見された。

 葡萄酒の口には、4本のツメがついた王冠が被せられ、そのツメの部分を覆うようにして、リング状の外栓が上から王冠を固定していた。外栓には小さなつまみ(耳)がついていて、その上に瓶の口に沿ってぐるりと封緘紙が巻かれており、耳を引っ張って外栓を開けるためには、封緘紙を破らなければいけない。
 しかし、弁護側の実験では、耳の反対方向から開封すれば封緘紙を破かずに開封うできることが証明されており、当時はこの方法で酒を盗み飲む者もいたそうだ。

封緘紙を破ることなく開けることができる

 なお、奥西氏の自白では封緘紙は毒を入れる際に「切れて落ちた」とあるが、宴会の際に開けたとされる者たちの供述調書では「巻いてあった」とある。そもそも、毒を入れたあとなら開封していないように見せかける必要があるため、封緘紙はくっついたままでないと怪しまれてしまう。

 なお、2020年には弁護側の再検証により、葡萄酒瓶に巻かれていた封緘紙の裏側から製造時とは異なる糊成分が検出されている。封緘紙はいったん何者かによって剥がされ、再度糊付けされていたのだ。

 ぶどう酒瓶に巻かれていた封緘紙に製造過程で使用されている業務用CMC糊(シーエムシーのりは科学糊で半合成糊料のこと。化学名はカルボキシメチルセルロースナトリウム)だけでなく家庭用に使われているPVA糊(ピーブイエーのりの化学名はポリビニルアルコール。文具としての液状のりの主成分でもある)の成分も付着していることが明らかになった。

 葡萄酒について調べてみると、栓は反対側から何か道具を使って外され、農薬を入れたあとわざわざ糊を使ってまで綺麗に元に戻されている。それだけの慎重な工作を行える時間と物品があった事になる。奥西氏は自白では葡萄酒を持っていった公民館で10分ほどで毒を混入したとされているが、果たしてそんな短時間で可能なのだろうか。
後編に続く…

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