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「彼と彼とが、眠るまで。」第二十一話


第二部 記録/変容する世界(十九)

――世界はきっと、平和に戻るのだろう。

 大地が芽吹き、やがて安息にまどろむようなった人々は、そんな希望をたずさえていたと思う。事実、わたしもこのごろ、漠然とそう思うようになった。
 しかし、それ・・は起こった。
 大きな地殻変動――本大陸全土を揺るがす、大地震だった。これまでにない地震は、海岸へ壁のような津波を引きよせ、河川は逆流し、濁流によって本大陸の海岸と川沿いの都市は軒並み壊滅。大陸の中央部では主要の魔導機構が破損。連携を取っていた各施設との通信は途絶え、さらには魔導機構に利用されていた魔素資源が暴発し、文明を次々と破壊していった。復興しつつあった人々のいとなみは一瞬のうちに瓦解し、北方では雪崩によって多くの生活が雪下へ埋もれた。
 さらに最悪は続く。
 この地殻変動によって多くの禁域がひらかれることとなり、いっきに瘴素が放出された。イルフォール島とは比にならない瘴素が大陸を満たし、生物群系はまたたくまに白へ侵される。それまで用意されていた対策は、膨大な瘴素には微々たるものでしかなく。開発途上の対策では、いますぐこの状況を改善できるはずもなかった。

――わたしたちは白に負けるのだろうか。

 このころには魔化の予防に効く新薬を開発していたが、にもかかわらず、予防薬を投与した研究所の者達でさえ次から次へと死んでいった。白に侵され、白になり、理非を忘れ、さまよう。せめて眠らせてやることだけが、わたしにできる彼らへのとむらいだった。彼らとともに開発した魔種対策用の武具が彼らの命を食うことになるとは、思いもしなかった。わたしは次第に寝つけなくなっていった。毎夜、白い悪夢を見るのだ。白い手がわたしを恨むように伸びてくる。なにもかもがわたしのせいだと指をさす。わたしはそれらを皆殺すのだ。わたしは人を生かすためにこれまで各地を奔走し、半生を捧げてきた。だというのに、わたしがこの手でを殺すのだ。ああ、やっぱりわたしは魔女でしかなかったのだろうか。なにからまちがえただろう。いったいなにが正解だったのだろう。免罪符はこの手にない。わたしを許してくれる人は、過去に死んでいった。そしていまなお、滅んでゆく。
 ある日、自分の胸元に広がる白い斑点を見る。その白色は、十年以上まえにぽつりと現れて以来、おし広がることもなく存在していたが、いまになって枝葉を伸ばすようにわたしの命を侵しはじめた。白くなめらかな表皮は、まるでわたしからわたしを奪っていくように、わが物顔で食っていく。わたしは鏡を見て、つい微笑んだ。ああ、わたしは許されるのだと。楽になれるのだと。ようやく、仲間の元へゆけるのだと。ああ。ああ、もう苦しまなくていい。わたしはもう死んでいい。死ぬことをゆるされる!
 だがどうしてか、むしょうに悲しかった。気がつけば、わたしは涙していた。そしてどうしてか、腹立たしくもあった。その腹立たしさに気がつくと、次から次へと怒りが湧いてきた。胸を掻きむしる。白を血に染める。どうして。どうして。どうして!
 どうして、こんなものをゆるさなければいけない!
 この白が、わたしの人生を奪った。
 白がわたしの友人を奪った。
 わたしの安寧を。
 わたしの大切ななにもかもを、この白が奪っていった!
 迎合してなるものか。わたしはうなりながら、叫んだ。爪がぼろぼろになるまで、胸元の白色を掻きむしった。ふざけるな!
 白を殺してやる!
 わたしは走った。いますぐに殺せなくてもいい。わたしが死んだ後でもいい。かならず白を殺し尽くしてやる。死んでも許してやるものか。血眼になってこれまでの研究資料をひっくりかえした。手当たり次第になんでもやっていった。生物群系の破壊の懸念など、こうも白い世界ではもはや役に立たない。なら手段を選ぶ必要はない。殺せ。殺せ。殺せ。殺してしまえ!
 お前たち白に人類の生き方を選ばせてやるものか。
 わたしたちは人間だ。わたしは人間だ!
 いかに脆くとも。いかに愚かであろうとも。どれほど無力であろうとも。この身がある限り。この思考があるかぎり。
 わたしは!

 いつしか、白しか見えなくなっていた。
 世界は白ばかり。
 わたしもまた、両の手が白くなっていた。わたしはこのことに気づくたび、自分の身体を掻きむしった。血の色を見ると、わたしはほんの少しのあいだ正気をとりもどす。そうして正気をとりもどすと、わたしはまた走った。各地に種を遺した。魔導機構を遺した。筆を手にとった。武器を手に同族を殺した。どうしてと叫びながら。殺してやると喚きながら。思考がまどろんで理非が失われていくなかで、いつも仲間たちの生きざまと死にざまを思いだしては、のたうちまわった。

 ある晩、気がつけばわたしはイナサの首に手をかけていた。白い手のひらに彼の脈動を感じた瞬間、わたしはちからを弱めたが、わたしの手はふるえることもなく、まだ彼の体温を求め縋っていた。彼の体内に流れるなにかを、わたしは渇望していたのだ。咽喉が渇いて仕方がなかった。イナサはうっすらとまぶたをひらいたまま「いいですよ」という。わたしは動けなかった。
 彼はまた言った。
「いいですよ。あなたになら」

 ああ、わたしはバケモノになったのだ。

 それからなんど彼の首に手をかけたかわからない。わたしは白を殺してやると心を燃やすいっぽうで、気がつくと彼の中身を求めていた。彼はほほ笑むこともなければ、悲しむこともなく、平生とわたしを受け入れる。わたしはそれがそら恐ろしくて、最後は決まって離れた。けれどもすぐに咽喉が渇いて、また彼の元へ戻る。わたしが翼に触れたいと願うと、彼はなにも言わずわたしに無防備な背中をさらすのだ。かつてあれほど、嫌がっていたというのに。
 不思議なことに、わたしの身体は白に侵されはじめてから、彼の翼がよくわかるようになった。それがふだん見えなくとも、匂いのようなものを感じる。甘いのかはわからない。ただ触れている間はひどく満たされた気持ちになる。かすかな息づかいを感じながら、半透明の繊細な羽毛に顔をうずめ、身体をあずけると、わたしはそのときだけ安らかに眠ることができた。
 彼は最近、朝起きる時に眠たそうに目をこするようになった。むろん、わたしよりもずっと起きるのは早い。彼はわたしの頭をなでると、いつものように朝食の準備を始める。このところ、わたしはあまり食事が喉を通らなくなった。お腹が減ったような気がしないのだ。そのくせ、いつも咽喉が渇いて飢えている。もうずっと前に鏡を見ることをやめたから、自分がどうなっているかはわからない。ただ、身体を清潔に保つようにとイナサがいうものだから、わたしはその言いつけを守った。
 いつのまにか、わたしは自分の股から血が出るさまを見なくなった。月に一度、呪いのように必ず訪れたその生理現象は、この腹に内臓を引き絞るような痛みを起こすこともなく、すっかり消えてしまった。わたしの身体はもはや、女ですらなくなったのだろう。このことに特別な感慨はなかった。けれども、それゆえに。このなにもなさこそ、わたしがいよいよ人間でなくなったことをあらわしているようにも思えた。

 ある朝。イナサが目覚めなかった。
 わたしはぞっとして彼の身体を揺り起こした。怖くて仕方がなかった。すると彼は、ずいぶん眠たそうにまぶたをもちあげた。ほっとするのもつかの間。わたしは彼のが薄らいでいるのを感じた。
 気がついた。
 わかってしまった。
 わたしの腹は、彼の魔素によって満たされているのだと。彼は今日もわたしの頭をなでて、二人分の食事を用意しに行った。そのとちゅう、足がもつれたらしく、彼は転んだ。ふらつきながら立ちあがって、なんてことのないように。変わってしまったあたりまえの日常をはじめる。
 もし。もしこのまま、彼の魔素が枯渇したら、どうなるだろう。

――なにぶん、脚の腱が使いものにならないので、必要最低限の魔素運用で、毎日毎秒、ひそかに補っておりまして。

 かつて、彼が口にしたことが思い起こされた。
 
 わたしは、なんてことを!
 
 その晩、わたしは彼が寝静まったころに、いつも調査に持っていたかばんをひっつかんで、外へとびだした。もう、彼のところにいてはいけない。わたしがわたしでなくなる前に。どこまで、どれほど歩いたのか。寂しくなると、それをぶつけるように手帳へ字を書きなぐった。数刻前の字はひどいありさまだった。いまこうして書いていることも、きっと忘れてしまう。毎日腹がへって仕方がなかった。今のうちに書いておかねばならない。咽喉を潤すことを考えていた。わたしにできることをしなければならない。魔素を求めていた。負けてはいけない。同族を殺す。食う。たりない。さみしい。おなかがへった。わたしは。
 たりない。
 たりない。
 ちがう。そうじゃない。
 わたしは、白を――……。

 人類は、よくもちこたえたほうだと思う。

 神のご慈悲なんてものはそう都合よくあるわけもないのだから、これはわたしの。わたしたちの努力の結果なのだと思いたい。

 人間のわたしには、なにができただろうか。
 人間だったわたしには、なにができただろうか。

 手のひらに転がった、ひと粒の翡翠色が、鮮やかで。
 わたしはそれを握りしめた。
 ねがわくば。
 色鮮やかな世界を見たい。あの安寧の日々のように。
 かくも美しき、色とりどりの世界を。

 最近。
 不思議なことに、ずっと夢見心地でいた。
 わたしは迫る死よりも、ずっと近くに、ずっととなりについてきてくれた友人のことばかりを考えているような気がしたのだ。彼は一見超然としているように見えるが、存外、やわいのだ。いや、わたしがかってに、都合よくそう解釈しているだけかもしれないが。わたしはただ、彼をひとり残して逝くことだけが、不安なのだ。
 ああ、筆を、取り落してしまった。
 筆?
 わたしはどうしてそんなものを持っているのだろう。

 さみしい。

 また、わたしは書いている。
 イナサ。イナサ。
 まだ、読めるだけの字を、書けているだろうか。
 目がかすんで、もうだいぶ、あやしい。
 それでも、頭だけは、まわるものだから。
 やるせない。

 ――……、ああ。
 インクの染みだけが、よく見える。

 最愛の友人よ。

 どうか、生きてくれないか。


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