「彼と彼とが、眠るまで。」第八話
第一部 記録/安寧の学園(六)
学園街の外れにある古い邸宅。その門扉をくぐると左手には畑があり、右手の庭には黄葉したブナが枝葉を広げている。遊びブナの周りはいつも、子どもたちがかけまわっていて、三歳から十歳を超える子どもと、さまざまだ。
イルフォール学園街西区。この孤児院は、アイが約二年間暮らしていた場所だ。
アイはひと月に一回、市場でたっぷりの輸入菓子を仕入れ、この孤児院で、そのひとつひとつを子どもたちに配ってまわるのだった。新しいものに興味を示す子どもたちのまなざしは、キラキラと輝き、見たこともないものに眉を大きく上げ、口々にお礼を言いながら包装紙をひらく。甘いお菓子を口にはこぶと、そのくちもとがまたたくまにほころび、幼い頬の輪郭が幸せそうにいっそう丸くなる。この顔を見るのが、アイは好きだった。
彼らは満足すると、そのうちに、レクサスの手を引いて、陽の下に駆けていった。アイは遊びはじめた子どもたちから、そっと離れて軒先のベンチに座るイナサのもとへ向かった。本当はここにレヴも連れてくる予定だったが、彼はあいにく、教員に捕まって学園で補習授業をうけている。
「悪ぃな。休日なのに、つき合わせちまって」
となりに腰かけると、イナサは「いえ」とやわく微笑んだ。
「毎月恒例、ってやつかな。レクサスとこうやって、世話になった孤児院に、遊びに来んの。孤児院っつっても予算が決まってるから贅沢はできないし。オレ、休みの日はだいたい学園任務、ってやつやってて、それでお金貯めながらさ、その一部をこうして使ってる。ま、恩返し半分。趣味半分、みたいなもんかな」
「すごいですね」
イナサはどこか不思議そうな顔をしたまま感心を示した。きゃっきゃと跳ねる子どもたちの声が響く。レクサスが「がおー!」と両手を大きくあげて追いかけると、子どもたちはいっそう甲高い声をあげて逃げまわった。
「人気者だろ、あいつ。レクサスはオレより先に孤児院にいて、でもあの時からずっと変わんねぇの」
秋の陽ざしで輝く赤色を見つめていると、扉のひらく音がした。アイは立ちあがった。のそのそと出てきた老齢の獣人へ、アイは頭を下げる。この孤児院に昔からいる、おじいちゃん先生だ。アイの腰ほどの背丈で、長い毛耳で目もとがすっかり隠れてしまうようすは、さながら長毛種のうさぎだ。
先生は、木陰がゆれるのを眺めてから、のらりくらりとベンチに腰かけた。
「イナサです。はじめまして」
「これはまた、ずいぶんと背の高い。それに、運命に愛されている方のようだ」
「運命?」
首をかしげるイナサに、アイはおじいちゃん先生なりの褒め言葉だということを耳打ちした。
おじいちゃん先生は、アイがトモダチを連れてきたことをよろこび、いつものように「大きくなりましたね」と懐かしむようにアイを見つめた。そこ一ヶ月ではそれほど身長も変わらないだろうと笑って返しながら、アイはいくらか近況を報告した。
「そういえば、ロロは?」
「あの子は、部屋で本を読んでいますよ。あとで、声をかけてあげてください」
ロロは一年ほど前に孤児院へ来た子どもで、病を抱えた母親が学園の関係者へあずけたのだそうだ。ものわかりがよくひかえめな性格だが、笑う時に、ふにゃとほっぺたがくずれるのがとても愛らしい子で、いつも本を読むことに熱心だった。
と、小さく扉がひらいた。ドアノブの影から、ひょっこりと黒目がちな子どもが顔をのぞかせる。ロロだ。
「アイ!」彼女は本を両手で抱えて、嬉しそうにかけよってきた。
「よう、ロロ。元気にしてたか?」
「あのね、お本を読んでいたの。アイがね、教えてくれた本」
「ロロは本当に好きだな。よし、今度また、別のやつ持ってきてやるよ」
「うれしい。アイ、だいすき!」
「はは、そいつは嬉しいな」アイはロロを抱きあげてやった。
「ねぇ、アイ。将来結婚して?」
「ん~、じゃあロロがもっと大きくなったら考えてやるよ」
「大きくって、どれくらい?」
「成人したら。いま六歳だから、あと九年かな」
「長いよ」
「いいんだよ。長くて。ほら、お前も向こうで遊んでこいよ。レクサスが呼んでる」
さし示すと、ロロは「うん!」とうなずいて、庭へかけていった。その背中を見送って、アイは息をつく。
「ロロのお母さん、病で亡くなったんでしたっけ」
訊ねると、おじいちゃん先生はゆっくりとうなずいた。
「ええ。彼女をあずけて、すぐに。まだ二十歳を超えたくらいの女性だったそうです」
「そう、すか」
「とても奇麗な方だったそうですが、亡くなるときには、残念ながらその髪も老婆のように真っ白になって、肌はまだらな白色に……見るにたえないありさまだったと、聞いています」
「真っ白に……」
アイは脳裏によぎった白を、くちで反芻した。
「それって」
言いかけたとき、ちょうど向こうで、レクサスが手を振った。おじいちゃん先生が、なだらかな手先をゆるゆると振りかえす。レクサスは口もとで手を立てて「アイもこっち来いよ」と赤い尻尾を大きく振った。
「おっと、ご所望か。人気者はツラいねぇ」
アイは立ちあがって、イナサに「行ってくる」と手でかるくあいさつをした。かけだそうとしたとき、ザァと秋風が吹きぬけ、おじいちゃん先生の声が背中に届く。おもわず、アイはふりむいた。
「本当に、信じられないくらい。あなたは変わりましたね」
「ま、ね」アイはにっと笑みをかえした。
「島へ来たばかりのあなたは、ずっと部屋のすみに引きこもっているような子で、誰とも言葉をかわさず、表情も見せず。ろくにものも食べずに、ただ死ぬことだけを待っているようでした。それが、ある時を境に、ぐんぐん変わっていった。いつのまにか、あなたも陽の光の下で笑うようになった」
木漏れ日がゆれる。おじいちゃん先生の瞳はこちらを見ているようでもあったが、それよりも、もっと遠くを見ているようにも思えた。
アイはその視線に、自分の記憶を重ねた。まぶしい赤色が、陽の光の下でさんさんと輝いている。いまでも昨日のことのように思いだせるのは、彼の手の温かさだった。
「せんせ、アイツはね、光なんですよ。まぶしくてたまらない。たまに、嫌んなっちゃうくらいね」
「あなたが抱えるものごとと、レクサスが抱えるものごとは、同じようにみえて、きっと別物です。それぞれに、相応の重さがあります。わたしたちはおたがいに、良くも悪くもずっと手をつないで生きているようなものですから。もし、あなたが大切な人のことを大切と気づけているなら、きっと大丈夫です」
「せんせ、ってさ。いつも、そういう希望的観測っていうか、良さげなことしか言わないっすよね」
「あなたはいつも、ものごとの裏まで見ようとするから、きっとそう思うのでしょうね」
先生は、ほうほうと笑った。もう一度潮風が吹いたとき、レクサスの声が「早くぅ」と急かした。アイは「じゃ」と短く会釈をして、かけだした。
「魔族ってさ、そもそもなんなの?」
帰りしに、レクサスはそんなことを訊いてきた。ならんだ三人の影が、石畳に長く伸びる夕刻。赤と黒の色紙で切り絵をしたような街のなか。レクサスは尻尾の先をぶぅん、ぶん、と揺らしていた。彼が話題にしたのは、先ほど喫茶店でアイが教えてやった人魔戦争のくだりだろう。
「魔族ってのはさ。人族よりも遥かに豊かで強大な〈魔導〉をあつかえる、脅威的なチカラをもった種族のことだよ」
魔導術が、まだそれとして知られていなかったころ。この世界には、その特異なチカラを生まれながらにあつかえる種族――魔族がいた。彼らはそれぞれに国をつくり、ほかの種族を従えた。従属の民草は、たび重なる戦争と圧政に苦しみ、そのうちに、各地で革命運動が起き始める。そして、そのときに筆頭となったのが、純人族、水泡族、天翼族、獣人族などを筆頭とする種族――人族だ。それらは次第に世界をまきこんだ民族大戦に発展。やがて時代のなかで魔族のもっていた特異なチカラが解明され、対抗策が増えたことによって、魔族の圧倒的な優位性は徐々に失われていった。
たしかに魔族は魔導について、ほかの種族にはないとび抜けた適性をもっていた。だがそれでも、もともと魔族人口は少なかったために、手を組んだ他の種族を押し切ることができず、結果的に敗北した。――これが、いまから約七十年前に起こった人魔戦争だ。
「で、人魔戦争のなかで、魔族が使うチカラを解明しようと動いたのが、魔導学の第一人者マナ。彼のはたらきによって、その仕組みが解明され、人族は自分たちもまた、魔族があつかうチカラを使うことができると知ったわけだ。これが今日にいたる魔導術の始まりになった」
「じゃあ、魔導術って、もともと悪いもの?」
「いや。悪いのは、ちからを独占して、圧政のために使っていた魔族。ようは、使いかたをまちがえたのさ」
「じゃあ、いま生きてる魔族は、悪くないの?」
アイは頭を悩ませた。
「まぁ……けど、その考えは、あまり歓迎されないかな」
「なんで?」
「魔族ってのは歴史上の『極悪そのもの』だからだ」
アイは続けた。
「魔族たちは、自分たち以外の種族を劣等種だと言いはって、戦争でそれはそれは惨いことをしまくったのさ。毒による水資源の破壊。自然環境・生態系を陰惨に壊滅させたり、奴隷を使った特攻作戦から騙し討ち。さらには、人族を使った人体実験まで――その結果、恨むに恨まれた魔族は、種族根絶の勢いで淘汰された。やつらにはもう、種族の地位を担保してもらえるだけの情報もちからも、情状酌量の余地も残されてなかったんだよ」
「じゃあ、魔族はもういない?」
「いや。まだいるよ。けど、そのほとんどは奴隷に生まれて、奴隷に終わる。仮にそうじゃなくても……国際的な法令で、魔族は〈魔導抑制具〉っていう、魔導術を使えないようにする器具をつけなければならない、って決められてるんだよ」
「でもそれって、いまの魔族じゃなくて、むかしの魔族がやったことが悪いのに……なんか、変なの」
「そうかもな。けどさ、考えてみろよ。たとえば、熊でもなんでもいい。アイツらはオレたち人間を襲う。オレたちは簡単に殺される。オレたちにとって、熊は熊で、良いヤツ悪いヤツ、ってのはない。それ以前の問題なんだよ。
……で、だ。熊と対峙したときに、なにも用意してなけりゃとうぜん死んじまう。けど、そこに武器があったら? たとえば、熊の動きを鈍くする仕掛けがあったら? もしくは、強靭な檻で隔てられていたとしたら? ――魔族はたしかに、人族と同じように言葉もつかえた。考えるだけの頭もあった。けど、そんなことぜんぶ無視して、圧倒的なちからでねじ伏せようとしてしまったんだ。そりゃもう、実例がわんさか。ありすぎるくらいにな。
人族からしてみれば、魔族なんてどれも、人間の皮を被っただけのバケモンにしか思えないんだよ。いま生まれてくる魔族が可哀想って思うお前の気持ちが、わからないわけでもないよ。オレたちは人魔戦争を、話のうえでしか知らないから、なんだそれってくらいに、思える。――けど、魔族がふつうに、ありのままに受け入れられる時代になるには、たとえば人族が魔族と同じくらいあたりまえに魔導術を使えるようになったり、もしくはそういう技術革新があったりとか。そういう、ちからによる『恐怖』が根底からなくならないと、無理だ。もちろん、それだけじゃなくて、人族から魔族に対する意識になんらかの革新が起きて、受けいれていこうって。そういうふうにならなきゃ、だめなんだよ。それには、もっともっと時間がいる」
「そうなんだ……」
レクサスは、しゅんと耳を垂れさせた。
「魔族って」
ふいに、イナサが声をさしこんだ。
「魔族って、なんなのでしょうね」
アイは質問の意図がよく理解できなかった。イナサを見つめ返すと、イナサは「いえ」と、どこか茫洋としたまなざしのまま、「魔導術が体系化し、認知されてきたなかで、けっきょく、いまの魔族という言葉がもっているのは、歴史上のできごとで――たしかに、魔族はその多くが魔導の才にめぐまれていますが、人族種のなかにも、そういうふうに、ごく自然に。あたりまえのように魔導をあつかえる者もいる。ですから、現代における〈魔族〉という言葉をはっきり定義するのなら。いったいなにを基準にすればいいのだろうな、と思っただけです」と言った。
「お前、哲学者になれるよ」アイが肩をすくめると、イナサは「それもいいかもしれませんねぇ」と、冗談か本気かわからないような間延びした声で笑った。学園寮へ続く街道へ出る頃には、空も藍色にかたむいて、影はあいまいに溶けはじめていた。
「でもなんだって、急にそんな」
アイが訊ねると、レクサスの赤い瞳が二色に別れた空を映しながら、足もとに視線を落とした。
「最近ね。サファイアがちょっとだけ、やさしくなって。表情を見せてくれるようになったんだ。それで、会えるのがもっと楽しみになって」
ああ、とアイはうなずいた。たしかに、最近のサファイアはレクサスを前に、あからさまとまではいかないが、多少態度をやわらげているようでもあった。もっとも、気のせいかと思うほどの変化でしかなく、アイはそれを黙っていたのだが――どうやらレクサスは、想い人の変化には敏感なようだった。
「それで?」
「あのね。この前、会いに行ったとき……リア先生がね、サファイアと二人きりで話してたの、聞いちゃったんだ。――『あなたは、魔族の王になるのだから』って」
長く伸びた影へ、赤い葉が落ちたこんだ。