「彼と彼とが、眠るまで。」第九話
第一部 記録/安寧の学園(七)
――魔族の、王に。
その日の晩。寮に戻ってからも、アイはレクサスの言葉について考えていた。夕食はいつもどおり食べたが、あまり食べた気にならず。夕刊を見ても文字がすべるように、思考だけが乖離し、けっきょく、いまはこうして灯りを消して暗い天井を眺めながら寝台に転がっている。明日は待ちに待った野外訓練で早く寝なければならなかったが、どうにも寝つけずにいた。――きっとレクサスは、聞きまちがえたんじゃないだろうか。
(たとえば、〈氷の帝王〉の、「王」だけが聞こえた、とか。サファイアが魔族だっていう根も葉もないうわさもあるから、そういう悩み相談とかしてたのかもしれないし)
寝返りをうつ。灯りを消してずいぶん時間がたっていたから、月灯りだけで、部屋の輪郭ははっきりと見えてしまう。しばらく、古い壁のシミを見つめていたものの、眠くなるどころか、逆に頭が冴えてしまった。アイは起きあがって、寮をそっと抜けだした。
てきとうなつっかけを履いて裏手の坂をくだると、ほどなくして海岸へ出る。ザザ、と寄せる波の音に耳をあずけながら、月光を反照する白い砂浜を歩いた。砂浜に沈んだ足の指先に、こまかな砂が流れこみ、思考をさえぎる。アイはつっかけを乱雑に脱いで、そのあたりへ投げた。
黒い波と白い砂浜へ真っ黒な自分の影が落ちる。その影が、ゆらりゆらと動くさまをぼんやりと眺め歩くと、こころもち、おちついてくるような気がした。アイはいつも、独りで考え事をしたいときは、こうして海岸へ出、潮騒の音をぼんやりと聞き流しながら、てきとうに歩くことをしている。季節柄、海風は冷たかったが、それがむしろ、考えすぎる頭をすっきりと冷やしてくれるようだった。
「夜の海は、死に誘われますよ」
しんと声が響いて、アイは顔をあげた。
「お前」
彼は薄氷の髪をさらりと夜風に流したまま、海に向かって立っていた。切れ長の冷たい瞳が、世界をふちどるように、アイの姿を映す。そのなかに存在する黒いまなざしを見たとき、アイはハッとして、いつものように軽薄な笑みをぶら下げた。
「ご忠告どうも。氷の帝王サマ」
サファイアは沸然と眉間にシワを寄せた。
「で、なに。こんなところで、散歩? それとも誰かと待ち合わせ?」
「あなたの軽薄さは嫌いです」
サファイアはふいと黒い海のほうへ身体を向けた。
「うそうそごめんって。あんがとな。オレがぼうっとしてたから、心配してくれたんだろ? 優しいねぇ」
「あなたもですか」
真意がわからずに首をかしげると、サファイアは「レクサスと同じことを言う」とつけ加えた。
「わたしが優しいだの、知ったような口をきく」
「じゃあどう思われたいわけ?」
アイは肩をすくめた。
「理解してほしいなら言えよ。じゃねぇと他人は、良くも悪くも都合のいいように、かってに解釈するぜ。ま、言ったって理解しねぇヤツはいくらでもいるけどさ」
「あなたはわたしのなにを」
「知らねぇよ」
アイは言った。
「オレはお前なんか嫌いだ。いくらレクサスがお前のことを好きだって言っても、オレはお前のことが嫌いだ。好きになんてなれるもんか」
「ならこの時間は無駄でしょう」
サファイアはいよいよ背を向けた。
「はぁん? そうやって都合が悪くなったら逃げんの。氷の帝王サマも大したことないでちゅね。帰ってお父サマに泣きつくんでちゅか? ばぶばぶなお貴族サマはいいですね」
ふりむいた彼の瞳が、冷淡にアイを見定める。
「よほど、氷漬けにされたいらしい」
「癪に障ったら今度は脅しですか。えらく単純なことで」
アイは嗤った。
「そうやっていつも他人にご機嫌とりさせてんのわかんねぇの? その貧相な対人能力でどれだけ他のヤツを傷つけてるか想像してみろよ。ああできないんですかね。帝王サマ? ――お前は他人に生かされてんだよ。それがわからないから、そうやって簡単に他人を傷つけられるんだ」
「それはお前が愛されてきたから言えるのでしょう」
サファイアの温度はますます低くなった。
「お前は血反吐を吐くほど魔導術を使ったことがありますか。毎日死にかけながら生き縋り這いつくばったことがありますか。罵声を浴びせられ、しょせんは奴隷の子どもだと、亡き母の尊厳も、人間として本来ふつうにあってしかるべき自尊心もなにもかも踏みにじられ、打ち砕かれ絶望したことがありますか。人を憎んだことがありますか。手足を縛られたまま暴力にさらされたことはありますか。目の前のヤツを殺してやりたいと。どうなぶり殺してやるのが一番苦痛を与えられるのかと考えながら、気が遠くなるほどの時間、苦しみに耐えたことはありますか。ええ、わたしはお前の言うように生かされてきた。コランダム家の後継ぎとして。この名の重さが、お前にわかりますか?」
「――じゃあ〈魔族の王〉ってなんだよ」
たった一秒の、波間。
アイは、弱く笑った。
「嘘つく練習くらいしとけよ、ばか」
風が襟足をさらう。――ああ、レクサスはやっぱり、聞きまちがえてなんかなかった。
「リア先生と、なに? さすがに逢引っていうには、話が物騒じゃん」
「……スフィネリアは、わたしとよく似ている。わたしたちは、魔族と人族の混血として生まれ、まわりに嘲笑され、冷遇され、あらがうことも許されないまま、利用されてきた。わたしもスフィネリアも、腹の底から、どうしようもないほど人族を憎んでいる」
「だから、〈魔族の王〉になるって?」
サファイアは静かに目を伏せた。薄氷のまつげが月灯りを透過してわずかにゆらぎ、彼の深海の瞳へ弱い光を落とした。暗い海のようだった。ようやく、サファイアはくちをひらいた。夜風に冷えた、うすいくちびるだった。
「安心しなさい。わたしはもう、レクサスとは関わりません」
そのとき、彼は顔をあげた。深海の瞳に月光が宿る。アイは目をそらせなかった。瞬間、潮騒が引いて、砂浜の星が瞬いた。世界のなにもかもが彼の言葉を待ちわびているかのように、いっせいに黙した。
「わたしは世界を変えます」
ただ、見ひらいた。声だけが、ひとりでにふるえた。
「なんだよ、革命でも起こす気か。人族と戦争でもするつもりかよ。なんでそんな」
「最初は、そのつもりでした。けれど今はちがう」
「ちがうって、じゃあ」
「魔族と人族の共存。両者の対等な社会です」
アイはたじろいだ。
「そんなの、できるわけ……」
「ええ。難しいでしょうね。魔族たちは今でも、傲慢な自尊心をもったまま、人族社会への反感を募らせている者も多い。人族もまた、魔族をおそれている。両者のあいだには、絶望的なまでの隔たりがある。これを無理やりに変えていこうとすれば、必ずひずみは生まれるでしょう。わたしが生きている間には、叶わないかもしれない」
サファイアの声は、ただ静かだった。
「魔族のなかには、人族との共存を望む者もいる。けれども、彼らの多くはいまの人族社会に疑問と不満を持っている者がほとんどです。このまま彼らを踏み敷いていれば、彼らの疑問と不満が、人族そのものに対する恨みへと変わることは想像に難くない」
「おかしいだろ。だってお前は、人族を憎んでるんじゃ」
「ええ。憎んでいますよ。どうしようもなく。今すぐにでも、殺してやりたいくらい」
サファイアは手のひらに、氷の結晶を浮かべ、それを強く握った。
「けれども、それではいけないと。思ってしまったのです」
ぽた、と指のすきまから、しずくがつたう。彼は手をひらいた。うすく広がった、手のひらのなかの水面には夜空の月が浮かんでいた。
「わたしの目の前には、道がふたつある。ひとつは、わたしがこれまでのなにもかもを捨て、まばゆい彼の手をとり、遠く、どこまでも遠くへゆくこと。そしてもうひとつは、彼の幸せを祈りながら、彼をおいてゆくことです」
サファイアは手のひらをそっとかたむけた。
「わたしはサファイア=クォンフィート・フォン・コランダム。わたしが彼を愛するには、わたしの名を捨てねばなりません。しかし名を捨てるということは、わたしの現実と未来、そして責任も、過去も。なにもかも。いっさいと向き合うことをやめるか、あるいはそれらいっさいと戦う。どちらかにしかなり得ないのです」
「待てよ!」
アイは砂浜にとられる足を必死に動かした。彼がなにをする気でいるのかは想像もつかないが、とにかく、サファイアを止めなければいけないと思ったからだ。頭のなかには、レクサスが大声で泣くようすが、まざまざと思いうかんだ。たとえ、自分が嫌いな相手でも。それでも、
「頼むから、レクサスを悲しませるようなこと、するなよ!」
サファイアに、手を伸ばして。
「――そのときは、あなたが抱きしめておやりなさい」
手が、止まる。彼の肩をつかむことも、この身を引くこともできないまま、ただふるえた。足から崩れてしまいそうだった。それなのに、サファイアの悲しげな青色から目をそらすことができなかった。
「世界は、変わります。わたしは、そのために今までを費やしてきました。そしてこれからは、憎しみではなく、未来のために。わたしは進みます」
「オレに託すなよ。だってアイツはお前のことが……」
「では、あなたはレクサスを、地獄へ送りだしますか?」
深青のまなざしは、なにもかも見透かしているようでもあった。
「わたしとゆくということは、およそ世界の敵になることであり、世界の敵になって死ぬということです。そんな道へ、あなたは愛する人を送りだすことができますか?」
アイは首を振った。
「ちがう。だってオレは、レクサスの親友なんだ」
ふるえるアイの手に、サファイアの手が重なる。傷つけることをためらっているような、ひどく優しい触れかただった。
「失いたくないのなら、愛しなさい。大事ならば、抱きしめておやりなさい。あなたは、けっして、愛する人の手をはなしてはいけない。わたしのところに、来させてはいけない。そしてどうか、あなたも幸せに」
誰に握り返されたこともないような、ひんやりと冷たい手のひらがそっと離れる。サファイアの背中を見送る前に、アイはくずおれた。あの手をレクサスにさしだせば、握り返してもらえるだろうに。砂をつかむ。指のあいだが擦れる。彼はもう二度と、あの手を誰かにさしだすことはないのだろう。そしていつか、誰かに手をさしだされても、触れることはないのだろう。
「オレには、そんな覚悟なんて……」
アイは砂を抱くように、ただうずくまった。