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「彼と彼とが、眠るまで。」第二十話


第二部 記録/変容する世界(十八)

 あれからわたしは、たびたびイルフォールへ訪れるようになった。年に一度。あるいはもう何回か。やることといえば決まって転移魔導門の様子見と氷樹の魔導機構に破損がないかの確認で、それには毎回、イナサもついてきた。船旅はともかく、島の見回りはわたし一人でもかまわないのだが、前にも増して、彼はとにかくついて来たがった。理由を訊ねてみれば、離れたらもう二度と会えないかもしれないと話す。それを無下にすることはできなかった。
 以来、わたしたちは前よりもいっそう共に時間を過ごすようになった。ずっと学生時代のままでいるように、軽口ばかりを叩いて、夜にはばん遊びをしながら、明日のことについて話しあった。わたしはいつのまにか四十しじゅうをこえていたが、彼はいまだみずみずしいままでいる。このことをわたしは不安に思い、それとなく彼に訊ねてみたことがあった。彼は多少の疑問をもっていたものの、彼自身が無意識に組みあげた魔導術式のことについては、やはり無自覚なままだった。彼はたんに自分が天翼族であり、純人族の寿命より、いくらか長く生きるからそういうものだろうと思っているらしかった。

 純暦一九四○年。いくらか季節がめぐった夏の終わりごろ。
 その日のわたしは、休息室でイナサと談笑していた。彼が淹れてくれるコーヒーを飲みながら、いつものように軽口をかわし、そのついでに進捗を報告していたのだが、彼はふと思いだしたように、わたしの手のひらへ一粒の魔鉱石を転がした。
 小指の先ほどの小さな翡翠色は美しい。魔素純度がかなり高いもののようだった。光に透かして見れば、翡翠の海中で流星のごとく光の筋が尾を引いた。
「ふつうのものじゃないな。どこで採ってきたんだ?」
「前にあなたが言ってたでしょう」
「まさか」
 わたしは、はっとした。
「お前がつくったのか?」
「いまはそれで精一杯です」
 息をついて、彼はティーカップへミルクをそそいだ。紅茶と同じ温度まで温めたもので、その手間ひとつで彼のこだわりが見てとれる。その紅茶の葉も、彼が畑で育てたものだった。
「魔導術式を組みこむなら、これより大きいものでないと難しいですね。単純に組みこむと瓦解してしまうので、外殻を保つための術式と、実際に発生させる現象を設定する術式が最低限必要になります。あるいは、魔導術式そのものの構造を専用に開発した方がいいかもしれません」
「なら専門部署に掛けあってみるか」
「サファイアさんがいれば、もっと簡単だったかもしれませんね」
 イナサは苦笑した。
「意外だな。お前の口から、そんな」
「俺は感覚でやっちゃいますし、けっこう大雑把なので、こういう緻密ちみつな術式を組むのは難しくて。すぐ飽きちゃうんですよ。こういうのは、サファイアさんの得意分野でしょうから」
 ああ、とわたしはうなずいた。脳裏に浮かんだのは、研究室の片隅で、サファイアが腰かけるさまだった。静かな薄氷のまつげの先をたどると、長く奇麗な指先が、魔導術式の線を引いて、魔鉱石にきらめきを宿していく。きっと彼のとなりには、レクサスがいて。そのうち気が散るだなんだと痴話げんかをするに違いない。
 レクサスは、相手にしてもらえないことに不貞腐ふてくされて、きっと愚痴を言いに来るだろう。わたしはそれを、はいはいと聞き流して、おやつでも持っていってやれとうながしてやる。レクサスはそれだけで足取りを軽くして、イナサの元へゆく。イナサはロロに菓子作りを教えているところで、それをレヴが仏頂面で見守っているのだ。できたての菓子をもって、休憩時間にはケインもやってくる。全員でサファイアをとりかこんで、騒がしく茶を飲みかわして。サファイアは迷惑そうな顔をしながらもなんがかんだそこにいるのだろう。
「アイツは王サマより、こっちのほうが似合ってるよ」
 わたしはあの頃の続きのような、どうしようもない夢想をコーヒーの苦みへ溶かした。
 ふと、あることを思いだす。
「そういえばさ」
 わたしはティーカップを傾けるイナサを見やった。
「魔素交合こうごうって、お前知ってるよな?」
「今度はなんの腹積もりです?」
 やはり。わたしは恨みがましくイナサを睨んだ。
「黙ってたな」
「なんのことだか」
 イナサは朗々と笑った。
「天翼族に伝わる、特殊な伝達手段だって聞いた」
「おおむね間違いではありませんが……」
 イナサはすこしばかり、思案したらしかった。
「接触した状態でお互いの魔素をやりとりするんですよ。天翼族では、おたがいの翼に触れあうんですけれど、どれも家族や恋人のごく親しい間柄のみですね。魔族の一部にも、これに近い風習がありますよ」
「ほらぁ、やっぱり」
「教えたら調べたいって言うでしょう?」
「ご名答!」
 わたしは指を立てた。
「嫌ですよ」
 イナサは即答した。
「と、いうか。あれけっこう危ないんですよ。調べるなら、被験者は慎重に選んだ方がいい」
「たとえば?」
「魔素の相性が良い者二人。あるいは、体内保有魔素量が同じくらいでないと、身体への負担が大きいんです。サファイアさんみたいに莫大な魔素を保有していながら、緻密な制御ができるなら話は別ですけれど。そんな人、探す方が難しいですからね」
「イナサは?」
「俺は無理です。相手を傷つけてしまう」
 イナサはティーカップを受け皿へそっと乗せた。革手袋に包まれた左手の甲をなぞり、息をつく。
「それだけならまだしも……魔素交合は、接触して魔素回路を繋ぐんです。そのときに、俺の場合は魔素の変質が起こる可能性がある。つまり、魔素回路を壊死えしさせてしまうということです。体内へ直接毒を流し込むようなものですよ。もちろん、そうでなくても、相手を傷つけようと思えば、けっこう簡単にできるんです。相手の許容量を無視して、魔素を流しこんでしまえばいい」
「それって」

――たとえば魔導術式を、相手の体内に生成することも?

 わたしは言いかけたものの、あわてて口をつぐんだ。イナサが自らの真実に気づく手がかりを与えてしまうと思ったからだ。思考をまわして、すぐさま別の話題へすべらせる。
「じゃあ、魔素交合の利点は?」
「お互いに嘘がつけないことです。拒まれればわかりますし、不調を抱えていれば魔素の流れが悪いので。もし魔素が枯渇しているなら、その不足分を補うことで不調が改善することもあります。あとはまぁ……恋人同士でおこなわれる、という部分で察していただければ」
「ああ、そういうコトね。そりゃ人を選ぶわ」
 わたしは半眼でうなずいた。
「でさ」
 空になったコーヒーカップへおかわりを注ぎながら、わたしは言った。
「瘴素が人体にとってどう影響するかって話」
 カップへ口をつけて、苦みを舌先へ転がす。香りを飲みこんで、続けた。
「近年の研究で、魔素の保有可能量が少ない純人族や獣人族でも、生命活動の維持に一定の魔素が必要なこともわかった。瘴素が魔素と酷似してるってことは、取りこまれた瘴素は魔素のふりをして体内のあらゆる魔素回路をめぐるわけだ。そうなると、あたりまえだが体内の魔素量が低下する」
「つまり?」
「魔化した連中が魔素濃度の高い空間に集まるのは、体内の魔素が枯渇することによる反応のようなものじゃないかと思ってさ」
 もう一口。二口。わたしは咽喉の渇きを潤すようにコーヒーを飲んだ。
「現状、白亜化の予防は投薬による瘴素の排出促進が一般的だろ? だから直接、魔素回路から瘴素を取りだして魔素を投入すれば、より回復が早いんじゃないかと。正直、今の予防薬は原料の生産が難しくて心もとない。そっちの課題もあるが、まぁそれとは別の手立ても必要だと思っててね」
「そういうことでしたか」
「参考になったよ。あんがとな」
 わたしはコーヒーを飲みきって、立ちあがった。残りは仕事をしながら飲もうと、お盆ごと持ちあげる。するとイナサが諫めるような目でこちらを見た。
、何杯飲みましたか」
「休憩に入ってからは、まだ二杯だよ」
 わたしは素知らぬふりをして、にやりと笑った。

 

 一九四三年。山の芽吹きが豊かになる季節のことだった。
 通りざま、ケインはいつもと同じように、日当たりのいい窓辺で目を閉じた。昼寝の邪魔をしたら怒られるからと、わたしはそのまま通りすぎようとしたのだが、しかし、この日はめずらしくケインがわたしを呼びとめた。
「アイ。開発途上の魔導機構についてだがね」
「その話なら朝までしこたま聞いただろ」
「だから、その具体的な改善案についてさ」
 わたしの言葉を無視して、彼はウトウトと魔導機構の話をはじめた。ケインはこと魔導技術の話になれば、数分ではとうてい済まない。わたしはあきらめて窓辺に身を寄せ、壁に背中をあずけ、まぶたを閉じた。
 いわく、瘴素の排出機構はまだ途上であり、これからもっと改善できるだろうこと。そのための具体案がいくらかあること。そしてその方法から実行した場合の予想まで、ケインはわたしの昼休憩の時間をまるまる使って、じつに長々と語った。
「と、いうわけだ」
「好きだね。お前もさ」
 ようやく満足したのか、彼はひとつあくびを織り交ぜると、ひげを垂らした。
「では、あとは任せたよ」
 冗談はよしてくれ。わたしは軽く笑いながら、ケインへ顔を向けた。彼は昼のやわらかな日差しに包まれたまま、すきま風にそよそよと毛先を揺らしていた。細くなった毛先は、光を帯びて白く輝いている。
「ケイン……?」
 わたしはケインへ触れた。
「なぁ」
 彼の丸い背をなでる。生きたままの毛並みは、やはり彼のものだ。すっかり痩せてしまった身体の輪郭と、骨ばった肉の感触。
「なぁ、起きろって」
 わたしはいつものように、かるい調子で言おうとしたが、どうしても咽喉がふるえてしまった。わたしの身体は、わたしが現実を認識するよりも早く、彼がこと切れたことを理解したのだろう。わたしはなんべんもケインの背中をなでた。嘘偽りのない精細な造形。ケインはちゃんと目の前にいる。まちがえることなんてない。
「冗談きついよ、ケイン」
 

 ケインが亡くなってから、わたしは心の穴を埋めるように、いっそう研究開発へ没頭していった。彼が最期に、新しく開発した魔導機器の瘴素排出機構が途上であるからどうにか改善し、実用化してくれと言い遺したからだ。彼は死ぬまで魔導技術機の開発者だった。せめて、これまでありがとうだとか、そういった言葉くらいおいていけと思ったものだが、じつに彼らしい最期だっただろう。これまでのことで、わたしはヴァリアヴルの開発者たちとつながりをもっており、また彼のおこなっていた開発にもいくらかたずさわっていたため、引き継ぎの苦労はすくなかった。
 それと同時に、わたしはサファイアが遺した氷樹についても解析を進めていた。目下の目標はこの氷樹のように、しかし人柱などという犠牲を必要としない状態での膨大な魔導術式を統制する、あたらしい魔導機構――つまり、自立型の魔導機構を作り上げることだった。
 サファイアは自らを媒体とすることで魔導機構に自己統制機能を与え、それにより自動修復や防衛機能などをふくめた複雑かつ膨大な処理作業を可能とした。
 これと同じように、魔導機構そのものへ自己学習機能や自己改善機能を与えることができれば、人の手で行われている管理や制御の負担が大幅に軽減され、これによって魔導機構の寿命も延びる。もちろん、そう上手くいく話でもなく、開発には次から次へと解決しなければならない問題も発生した。これだけに注力しているわけにもいかないわたしは、各地を奔走ほんそうしながら自立型魔導機構の開発およびその問題解決を進めていた。そのさなかで、ヴァリアヴルが開発していた魔導人形マナ・ドールや、ケインと懇意にしていた開発者たちが、わたしに問題解決のためのじゅうぶんな手掛かりを与えてくれたのは、いうまでもなく。とくに、ヴァリアヴルの自動分析型魔導機構は参考になった。彼らは魔導人形マナ・ドールをより人間に近い存在へと昇華させるべく、魔導機構によるデータ収集と感情分析の仕組みを開発していたのだ。
 わたしは在籍する研究員やイナサの助力を得、ヴァリアヴルと連携を取ることで、自立型魔導機構の開発は地道に、ときに停滞しながらも、遅々として進んでいった。
 ケインが遺したものは感謝でも世辞でもなかったが、未来へつながる課題と道筋を、わたしに与えてくれた。これらが叶えば、わたしはようやく、サファイアが託していった未来へ道を繋ぐことができるのだ。
 意気込んで日夜調査研究に没頭していると、イナサには、ほとほとあきれられた。彼はわたしが散らかした書類をていねいにまとめてくれるのだが、最近はそのたびに「ちゃんと寝てください」や「ちゃんと食べてくださいよ」などと、どの文頭にも「ちゃんと」がつくことが多くなっていた。わたしがどこ吹く風でからから笑っていると、彼は最終手段とばかりにわたしをたわらのように担いで寝室へ投げこみ、八時間きっかり寝るように言いつけて、部屋の清掃や洗濯に戻るのだった。たまにいっしょにご飯を食べると、彼はとても嬉しそうに顔をほころばせるものだから、それがしょうしょうむず痒くもあったが、まぁ笑っているならいいかと思い、二人でできたての手料理をわけあった。いまやわたしの舌はイナサの味付けに慣れきってしまった。もし最後の晩餐はなにがいいかと問われれば、わたしはまちがいなくイナサの手料理だと答えるだろう。どこへいっても、なにがあっても、彼の手料理を口にすると安心することができた。
 イナサは、わたしの調査研究に協力するいっぽうで、平時は各地方に残されたレシピを再現することや、畑の手入れに精を出しているようだった。いつのまにか、畑を眺めている彼の横顔を見ることが、わたしにとってひそかな日々の楽しみとなり、安らぎになっていた。彼はわたしの視線に気がつくと、すこし、はにかんで、そして嬉しそうに採れたばかりの作物を見せてくれる。こんな日々が続けばいいと、願わずにはいられない。
 豊かな畑の緑と彼の笑みは、まるで一枚の絵画のようにも思えた。
 いついなくなるともしれないこの笑みを残しておけないだろうか。そんなことを考え、わたしはふと映像記録装置の存在を思いだした。同時に、学園にいたあの時。手もとに映像記録装置があればと思ってしまった。かつて、学園街の裏中古屋でたたき売りされていたラジオを買うか、それとも記録装置を買うかで迷ったのだ。――いまになって、後悔するなんて。
 わたしはつい苦笑した。
 この日から、わたしの気まぐれな日課には、その日の出来事をつづることにとどまらず、記録装置の使用も加わった。もっとも、日々の忙しさに翻弄されてあまり頻度は高くなかったが、ささやかな日常を。わたしたちが、わたしたちである姿を。
 いつだって、ただ人であることを思いだせるように。


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