推理への批判。(人狼)

※長期人狼のプレイヤーへ向けた内容です。短期人狼ではこんな事一々考えてないです。

(まえがき)

タイトルをつけるというのは、まるでそのタイトルがこの記事の全てであると言っているような気がしてならない。
その理由から、一瞬もう「無題」で良いのではないかとも考えたのですが、それではあまりにも殺風景、無機質なので、もっとも適切だと思うものをタイトルとして設定しました。

「人狼は推理と説得のゲームである」であるとか、あるいは「これは議論によって人狼を見つけるゲームである」というのが、このゲームを端的に説明する際の常套句となっているだろう。
しかし、これはおおよそ形骸化したものだとも言えよう。
人間にとって、論理や感情、ひいては言葉を適切に扱うことはできない。持っていることがイコールで、適切な扱いができることの証明にはならない。これは例えば、化粧にも上手い下手があるのと同じと言って良いだろう。

また、論理的に考えるより先に、発言を見て、何かが感覚に触れたから推理を行う訳だけれど、この感覚に名前を付けるならば「誰が人狼なのか見つけるための感覚」となるだろう。
この感覚に引っかかった時点で「これは人狼である」または「これは村人である」という結論が〝自動的に肉付けされてしまう〟のである。(どちらともつかない、という結論もまた存在する)

より正確に表現するならば、これらのものは結論というよりか、感想とした方が適切だろうか。であれば、真の意味での結論というのは、そういった感想の積み重ねによって導かれるものである。
この感覚と呼ばれるものは、どこまで有効だと言えるか。
自動的に肉付けされてしまうものだからこそ、頭の中へとすぐに入って来てしまう。それが正しいものだという確信を帯びながら。


よく感覚で人狼を見つけている、と自称する立場がいるが、論理的に人狼を探していても「誰が人狼なのか見つけるための感覚」は誰もが持っているはずであり、その意味でロジックは感覚の上に存在している。論理と感覚は別々の概念ではなく、地続きの概念だと言えよう。
さて、話は戻って、人狼は推理と説得のゲーム、議論で人狼を見つけるゲームとはよく言ったものだが、「あなたは説得されたことがあるの?」ということ、「あなたは議論を行なっているの?」ということを考えて欲しい。


よく人狼ゲームでの殴り(あることについて追求すること)では「それって結論ありきの発言だよね」といったものがある。
しかし、これもある意味で当然ではないだろうか?ということを、私はこのノートを書いていると思うのだ。
「感覚に引っかかった時点で村狼の感想は自然とくっついてくる」のだから。
「感覚を言語に変換することによって発言は行われる」のだから。
であれば、次の様な考えにもなる。
「結論ありきで発言していることがある意味真理ならば、そこに説得・議論という要素が本当にあるのだろうか?」

これに関しては、恐らく「ない」と言い切っても良いだろう。
かと言って、それらの要素が否定された時、人狼ゲームはただの運ゲーに成り下がるかとなると、それはまた違うとも思う。(もっともその側面があること自体は否めない)
人狼が誰か分かるために必要なものが何か。その問いに対する私の答えは「鈍感でいる」ということと、「整理を行う」ということの2つに集約される。


まず「鈍感でいる」とは何を指しているのか、という話からしよう。
恐らく誰もが、人狼を探そうとしたことがあるだろう。(そりゃそうだ)
「これは防御感に見える」とか「ここはわざと発言稼ぎをしている様に映る」とか、または「何でこういう発言をしているの?」とか、割と何でもある。
しかし、実際その内いくつが「人狼だから言ったもの」だと言えるだろうか。
感覚に引っかかった時、人は〝想像を働かせて〟言語化という行為を取る。そして、今挙げた様に、黒いことを表現する言葉はいくらでもある。「想像力には際限がない」ということだ。
もう少し分かりやすく言えば「ある要素を探そうとして見れば見つかる(探している要素になるように想像力を働かせる)」ということだ。

これらを回避するために最も有効な手段は何か、と言ったら「鈍感でいる」ということ。言い換えれば、極論、誰が人狼か見つけるための感覚を遮断すること。アンテナを立てないということ。
それができてはじめて、次の「整理を行う」ということに取り組めるのではないかと、私には考えられるのである。

「人間は論理や感情、ひいては言葉を適切に扱うことはできない」という、かなり否定的なスタンスから入ったものの、実際には適切な扱いができなくなる原因は必ず存在している。
これは今までに述べている通りである。
ロジックが感覚の上に成り立つものでありながら、その感覚を使うこと自体、さほど優れたものではないからだ。
裏を返せば、その感覚をなくしてしまえば、論理や感情を適切に扱うこともまた、いわゆる普通と比べてできるようになるはずである。

先に、長期人狼と短期人狼での違いから語る必要があるので、その話から入ることとする。

不安の深浅というのは、情報の多寡によって決まるものだろう。
短期人狼では時々「有効発言」という言葉が見られる。(正直どういった意図で使っているのか分かっていないのだが)恐らくこれは「村狼の精査に値する発言」と定義するのが良いだろう。
その上で、この有効発言がイコール情報であると考えるものとする。
村目だと思っていた所に、黒目だと思う情報が多くなれば疑う。説明してみれば単純なことだ。

私の経験として、長期人狼と短期人狼では、短期人狼の方が精度が良い。(編成が別物なので、そのまま比較するのも無粋な真似ではあるけど、それを差し引いてもである。本筋とズレるので、流石にここの詳細は省かせて頂く。)
この二つで何が違うか考えた時、真っ先に出てくるのは「情報量の差」だ。
短期の方が時間制限のために少なく、反対に長期人狼はいくらでもある。また、長期人狼では熟考する時間もたくさんあるので、いわゆる有効発言もまた、たくさん出る。

では、どうしてこの情報が少ない方が精度が良いのか。
これを考えた時「短期人狼の方が情報が少ないからこそ、自動的に肉付けされる結論(感想)も少ないからだ」という答えに辿り着く。
これには我ながら息をついた。

であれば、長期人狼で必要なことは単純明確で、「情報の整理をすれば良い」のである。
短期人狼でも、有効発言があると思ったので残したものの、実際はそこまで精査が進まないということがあるように、長期人狼でも有効発言「らしいもの」があるだろう。それの整理を行う。

論理(あるいは必要ならば感情)はこの整理において用いられるべきものではないだろうか。
言葉を適切に扱うことができない理由は「誰が人狼なのか考えるための感覚」の上に成り立っているから。
であれば、「ただの情報の整理においては、そのような感覚が入る余地はなく、そこには純粋な論理的思考のみが存在している」と言うことができるだろう。
先に言った「論理や感情を適切に扱うこともまた、いわゆる普通と比べてできるようになるはず」というのはこのことである。

推理のために言葉を連ねる。どういう言葉を使うべきか熟考する。対象グレーの発言の成り立ちを事細かに説明しようとする。
しかし実際は、(他に相応しい言葉がないのでこれを用いるが)推理に必要な前提を削るために言葉を連ねるべきではないだろうか。


(あとがき)

タイトルを「推理への批判」としたことにはいくつかの理由がある。
誰が人狼なのか考える時、その方法は色々とあるだろう。まさに際限なく、無限にあるかと思うほどに。
それと同時に、確実に見つけられる方法といったものは存在しない。推理ゲームなのだから、当然そのようなものがあっては困るのだけど。
私は、人狼を見つけるという発想自体が傲慢なのではないかと考えた。
誰が人狼かについての「感想」を取らないように、ただひたすらに整理を繰り返す内に、「分かる」とするのがもっとも適切な表現ではないかと。
結論という言葉は、文中でも用いたが、結論っていうのは議論してまとまった意見を指すのであって、でも人狼ゲームでは議論というほど綺麗なものは行われていない。

これは、このノートを執筆している最中でも感じたことだけど、「指が止まった時、諦めて気分転換に音楽でも聴いた方が良い」のだ。
強引にひねりだした文章より、時間を置いてから自然と降りてきた文章の方が、自分で書いていても腑に落ちることが多い。
これは人狼でも同じなのではないか?という一つの着想を私は得た。
そして、今つづっている内容があとがきであることにも、いくつかの理由がある。
そもそも、「見つける」と「分かる」という表現自体、禅問答染みたものであるからだ。
誰かと対話をしながら人狼を探すコツというものと、誰かにひたすら質問を飛ばしながら人狼を探すコツ、でも全く別のセンスが必要だろうし、一人で、一人ずつ考察をまとめて落としていくスタイルもある。
それらの強さは実際に試してみないと分からない、ということと同じで、一つの新しいスタイルとして、示唆に富んだものであれば良いだろう。

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