売り手市場だった17卒就活で58社連続で落ちた
3月1日。
その日のキャンパスは何かが違っていた。
黒い蟻たちが行列を作る。
中には鮮やかな色を無理やり塗りつぶしたような黒もあった。
そしてほとんどの者が似たようなこわばった表情を浮かべていた。
僕も着慣れない黒いスーツに身を包み、これまた不自然な7対3の髪の毛とともに合同説明会の会場にわざと遅れて向かった。
結局は僕もアリンコだ。
自己嫌悪の感情でいっぱいだった。
私の友人には留年した者が多く、まるで高みの見物のように就職活動を迎える同級生たちを見下ろしていた。
就活なんてするものかと解禁日までほぼ何もしなかった。
大衆に迎合しないことがかっこいいと思っていた。
OB訪問やES対策などに奔走する人間を痛い奴と見下した。
だが、周囲を蟻だと揶揄しながらも、結局は切羽詰まれば自分も同じように就職活動を始める。
自己肯定感が低く、周囲の評価ばかり気にする僕は
当然のように大手企業のみに応募した。
都内では名の知れた大学だったし、大量に受ければどこかの企業はとってくれるだろうという謎の自信があった。
ESは気持ちいいくらいによく通った。
SPIも全く苦戦することなく全通した。
同級生たちはESやSPIが通過しないと悩んでいた。
ほら見たことか。
ここで、己を優秀な人間だと勘違いしてしまった。
ESが何社通ろうと就職する企業は1社なのに。
面接もそこまで大きく苦戦しなかった。
僕は面接を引き出しを開ける行為だと思っていた。
自分の引き出しの中には体験が詰まっており、面接官の質問に合わせてそれを出し入れする。そんな感覚だ。
どんな質問が来たらどの引き出しを開けるかが決まっており、詳細を聞かれれば答えるだけである。
僕が使ったのは3段の引き出しだ。
1段目はラオスでの教育支援ボランティアの経験。
これは志望動機や人生を通したやりがいを聞かれた時に開ける。
また、飛び道具としてラオス語の挨拶などをし、英語アピールする就活生が多い中、面接では非常に受けた。
2段目にはアナウンス研究会でオーディションに落ち、ステージに立つ後輩や周囲のサポートを徹底していた話。
希望部署に配属されなくても頑張れますか系の質問にはこれで返していた。
3段目は 20キロのラジカセを担いで、100キロ歩くイベントに参加した話。
体力アピールや初志貫徹のアピール、周囲を鼓舞するエピドードに使っていた。
結果10社ほど最終面接まで駒を進めたが全て落ちた。
ESで落ちようが最終面接で落ちようが落ちたら一緒。
なんで。なんで。なんで。
持ち駒が減っていくたびに焦りを感じた。
6月の終わりには周囲の人々の大半が就活を終えており、
リクルートスーツに身を包みながら大学に通うことが苦痛だった。
最後の方は大企業に行きたいなど思ってもおらず、
この就活の苦痛から解放されたいという願いだけが僕を動かしていた。
1、2年生の時に小馬鹿にしていた、夏になっても内定が決まらないイタイ先輩に自分がなるなんて夢にも思わなかった。
わざわざ大学に着替えを持っていく自分が醜く思えた。
7月の最後、唯一ゴリゴリ営業で有名な人材会社の最終面接が残っていた。
ここで落ちたら、またエントリーから逆戻りだ。
営業なんてしたくもなかった。でも藁にもすがる思いで面接会場に到着した。
その面接官が印象的な一言を放った。
君さ、なんでそんなに”まわり”ばかり見てるの?
就活を早期にはじめる人間を小馬鹿にする。
大企業に行って賞賛されたい。
恥ずかしいからどの企業でも内定が欲しい。
7月になってまだ就活していることがバレたくない。
そこに己の意思はなかった。あるのは他人の目線を必要以上に気にする自分の姿だった。
君は本当は働くということに対する覚悟ができていないんじゃないか。
面接官は続けた。
内定はあげられないけど、残りの時間で本当に自分が何をしたいのか考えなさい。そうじゃないと君は一生後悔するよ。
面接で初めて泣いた。
自分の心の内を見透かされた気がした。
親から喜ばれたくて県内No.1高校を受験し、
親戚や周囲から賞賛されたくて有名な大学に進学し、
他者から評価されたくて大企業への就職を希望した。
幸せのものさしはいつだって他人だった。
翌日、予定していたESの提出を全てやめて、北陸新幹線に乗って実家のある富山県を目指した。
これは裏切りだ。
22年間他者の目を気にし続けた自分自身への初めての反逆に胸が高鳴った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。今、心の傷を少しづつ癒しながら元の自分に戻れるよう頑張っています。よろしければサポートお願いします。少しでもご支援いただければそれが明日からの励みになります。