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親ガチャとはなんだったのか?
親ガチャ=自意識検査キット
「人生とはゲームなんだよ、あーむ。人生とは実にルールに従ってプレイせにゃならんゲームなんだ」
「はい、先生、そのとおりです。よくわかっています。」
ゲームときたね。まったくたいしたゲームだよ。もし君が強いやつばっか揃ったチームに属していたとしたら、そりゃたしかにゲームでいいだろうさ。それはわかるよ。でももし君がそうじゃない方のチームに属していたとしたら、つまり強いやつなんて一人もおりませんっていうようなチームにいたとしたら、ゲームどころじゃないだろう。お話にもならないよね。ゲームもくそもあるもんか。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』サリンジャー著、村上春樹訳
流行語大賞(しかも昨年の、だ)になった時点で消費期限の怪しいミームだが親ガチャについてだ。あーむ。
親ガチャは語り口でその人のセルフ・イメージがわかる便利な試薬だ。
ホールデン君も指摘している通り、勝ち側は「不正なゲームで勝ちました」とは言わないし、負け側は「公正なゲームで負けました」とは言わない。
しかしながら親ガチャという試薬への反応によって、その人物が自分をゲームの勝ち側・負け側のどちらに置いているかがわかる。
覚醒剤使用者の尿をかけると真っ青になる試薬みたいにハッキリわかる。
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「親ガチャ」は論争の的になった。
社会リソース配分の不均等とか努力不足だ責任転嫁だとか私も恵まれない環境だったがこの勉強法で東大入っただとかいや親ガチャは勝ちだけど辛いこともあるんだよとか。
つまるところ「ゲームの公正性」の議論だった。
まあぶっちゃけそこらへんはどうでもいい。
どうでもいいは言い過ぎか。
「ゲームの公正性」について興味がある人は社会学や教育学の方面の研究でも調べたりすればいいんじゃない。
「親ガチャ」以前からこの手の議論は続いている。それこそ聖書なんかゲームの糞仕様に憤った怒りレビューの集大成だろう。
今さら私みたいな門外漢が消費期限切れの流行り言葉に乗っかって物申してもつまらない。
しかもそもそもがゲームでもないんだ。
実録親ガチャ力レポート
まだ親ガチャが辛うじてミームとして機能していた2021年の晩秋、私は旧友(仮に石田とする)とロイホのドリンクバーで粘りつつ駄弁っていた。
石田は創設者を先生と呼び慣わされる某名門私立大学(まあ慶應大学)を経て外資系コンサルに勤める「エリート会社員」のフリー素材みたいな男になっていた。
翻って私はといえば三流大学を中退し失業保険を受給するためにハローワークへ月一通うのが社会との唯一の接点という主夫生活をエンジョイしている。
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そもそも中学時代から駅前の分譲高層マンションに住んでいた彼と玄関すぐ脇が脱衣所なしの風呂場という長屋暮らしの私では全く違う世界にいた。
圧倒的な親ガチャ力格差があったわけだが、なんだかんだ彼とは互いにとってほぼ唯一のティーンエイジャー時代からの友人である。
そんな私達はゲットー育ちと高級マンション育ちとして話題だった「親ガチャ」について議論を戦わせて遊んでいたわけだ。
教育格差とか文化資本とか社会的公正さとかアファーマティブ・アクションだとか、まあ紋切り型の親ガチャトークだね。
コーラとファンタを混ぜたナニカを飲みながら石田は大学時代を振り返りこんな話をした。
「生まれか環境かってテーマあるじゃん。俺さ、慶應で周りの奴に訊いて回ったことがあるのよ。
今、自分がここにいるのは自分の生まれ持った才能によるものか、それとも環境によるものか、ってね。
そうしたら大体半々だったんだよね。生まれつきの頭の良さでここまで来たって奴と、いや環境がよかったからだって奴」
親ガチャの向こう側
私はビビった。
こいつらの試薬は完全に真っ青だ!!
その半々だったという調査結果もだが、それよりも「ここまで来れた」という「ここ」がプラスの価値のある場所という前提が成り立っていることにだ。
慶應風情がイキんな、とかそういう学歴厨は学歴板へ帰れ。三流大学中退からしたら慶應もハーバードも同じだ。ビリギャル大学舐めんな。
とにかく彼らにとっては「ここ」が良き場所、ひいては自分が勝ち側であるという認識が当たり前に共有されている空間。
ほぼ全員の試薬が真っ青。それにビビったのだ。
この前提が成り立つ場所はあまり多くない。刑務所とかだろう。
そこでは「なぜここに来てしまったのか?」という対極的な問いとして成り立つ。
まあそんなことよりもだ
私ことレペゼン長屋、答える
「自分の才能でここまで来たって奴は本当に嫌だしモヤモヤするけど、そのモヤモヤする理由が分かった。
そいつ、いや答えたやつみんなに言ってやりたい。
死ぬほど羨ましいっす!その圧倒的な自己肯定感が!」
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真っ青な試薬を前にストリートワイズことレペゼン長屋は消し飛んだのだ。
そして続けた。
「へし折られることなく健やかに屹立した自己愛が死ぬほど羨ましいっス!!
ここにいる自分への信頼感!
嗚呼高貴なる哉ブルーブラッド!!
屈服!!必然的屈服!!」
親ガチャの向こう側にはこの世界と自分への肯定感がある。
いわゆるガチャに勝ったとされる人にもこれが得られない人もいるしその逆も然りだ。
むしろ親ガチャよりもハードな運要素だ。
石田は爆笑していた。悔しかったから出産祝いとしてドリンクバーを奢ってやった。
石田、おめでとう。またカラオケいこうな。
怒りのレビュー集『聖書』と靴舐め力
そんなわけで私は高学歴エリート集団の靴を順番に舐める栄誉に浴したわけだ。
だがね、私は負けちゃいない。そしてあいつらも勝っちゃいないし、あなたも負けても、勝ってもいない。
私と石田との間に違いはあっても勝ち負けはないはずだ。人生はゲームではないのだから。
ゲームでない理由はシンプル。
仮にゲームだとしたら運営が運営を放棄している。
だって異議申立て方法が祈るだけなのだ。
頑張れば祈りで運営とチャットできることもあるらしいけど割とスルーされがち。参考に聖書を見てみよう。
わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。
わが神。昼、私は呼びます。
しかし、あなたはお答えになりません。
夜も、私は黙っていられません。
(前略)しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができよう。
たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。
聖書はカスタマーサポートがクソだと憤る口コミ投稿の連発だ。面白い。
つまりこの世界には運営者も監督者もないらしい。
バグもチートも放置されっぱなしなのも当たり前だ。修正パッチ「預言者」とか「救い主」が配信されてた時期もあったらしいけど。
現状は大規模アップデート「黙示録」の予告だけあって本実施がいつなのか未だにアナウンスされていない。
そんなやる気なさすぎの運営だから最初からゲームとして成り立っていないというか、むしろそもそもゲームとして設計されていないんだろう。
いわゆる「親ガチャ」論争はこのゲームでないものをゲームとしてプレイする上での公正性を論じていたものだろう。それはそれで意味があるとは思う。
でも根本的にそこに勝ちも負けもありえない。ゲームじゃないんだから。
この理不尽な世界で「なぜ」と問う
だからといって生きることに対して斜に構えろというのではない。
まあ勝った負けたも生きるうえで大事なこともあるし。
私だってもっと平和な家庭に生まれて人並みに勉強していい会社入ってボーナスもらったりとかしてみたいかった。
もっと贅沢だってしたい。正月以外もすき焼きが食べたい。スシローだって行きたい。
靴を舐めたら金やるって?徳兵衛も行けるって?
うん。いいけど、いくら?
片方?両方?側面?上部?ソール?履いたまま?
オッケー!舐めまーす!余裕っす!
まあ靴舐めてそのゲームに勝てるなら舐めるよ。所詮ゲームなんだから。
でも、その、あれだ、舐めた舐めない勝った負けたでは、魂は満たされないし損なわれるわけもない。
椎名林檎はこう歌っている。
何故なら価値は命に従って付いている
ほらね君には富が溢れている
でも自分って負けかも?と思ったまま生きるのも心折れそうにもなるし大変はことだ。
実は靴って舐めても美味しくないしね。
だから心折れないためにはこの理不尽な世界で「なぜ」と問い続けないといけはない。
ガチャに勝てなかったとしても、この問いをやめてしまったらもう永遠に負けだ。
したり顔で「人生そんなもんだ」とか言う奴になったらそれこそ負けだ。
そんな負け犬は俺の靴を舐めさせてやる。
ところで実はこの記事は次の2冊の読書感想文でもある。
本年もよろしくおねがいします。