『タオルケットは穏やかな』の歌詞の世界
カネコアヤノの武道館が終わってから『タオルケットは穏やかな』を毎日聴いています。LPの歌詞カードを広げると、それぞれの曲がひとつの部屋を中心とした短編のように思えてきて、一周聴き終えたころには一本の映画を観たような気分になります。リリース直後に感じた気持ちを忘れたくなかったので、こうしてnoteを書くことにしました。私はメロディやサウンドについてはうまく説明することばを持ち合わせていないので、ここでは歌詞に限定して書くことにします。
○<愛>の曖昧さについて
カネコアヤノはこれまでも歌詞に<愛>という単語を多く使っていますが、今作は<愛>の使われ方に大きな特徴があると感じます。最初の曲「わたしたちへ」では「寄りかかることが怖い 愛ゆえに」というフレーズで、<愛>が存在することによって何かが困難になっていることが示唆されます。続く「やさしいギター」では「優しさばかりが愛か分からずにいたい」いうフレーズにより<愛>を定義することを拒否するような表現になっています。そして次の「季節の果物」では「すべてに捧ぐ愛はない あなたと季節の果物を分け合う愛から」と続きます。好きでもない人にも向けられるような<愛>があれば苦労はありませんが、生活とはそのようなものではありません。だから<愛>を捧ぐときには、その人は<愛>の対象としてよいのかを自ら選択したうえで捧げるしかないのです。これは「燦々」の「自ら選んだ人と友達になって」というところと似ていますね。そして次の「眠れない」では「こうして誰かを思ったりして明日の愛を想像する」と続き、ここでもやはり<愛>は捧ぐ対象をはっきりと指名したうえで想像されるものになっています。
ここまでの冒頭4曲に連続して登場する<愛>は、何かをすることを躊躇させたり、知ることが怖いものであるという性質を持っていて、だからこそ捧ぐべき人を自律的に選択しなければならない存在として描かれます。ゆえに<愛>はどこか影を持っていて、決していつでも生活を彩る存在ではないような印象を受けます。
続く4曲でも<愛>は主題となっているように感じられますが、単語としては言及されていません。ですからとりあえずここでは置いておくことにします。次に<愛>が出てくるのは表題曲「タオルケットは穏やかな」のサビの「いいんだよわからないまま 曖昧な愛」という力強いフレーズです。ここで<愛>は肯定される存在に変わります。といっても、文字通り曖昧であるということがわかるだけなので、<愛>とどう向き合うべきなのかや、その中身が何であるのかはやはりわからないままです。それでも、自分が好きな人に対して向ける曖昧な<愛>はその存在そのものが肯定されるべきものだと歌ってくれていることが大変心強く感じられます。最後の曲「もしも」では「愛が怖いけど頑張るしかないんだね」というフレーズで、<愛>はまたまた怖いものとして歌われます。ですが、<愛>が怖くても、わからなくても、曖昧な<愛>そのものを肯定してもらった後にあっては、もうそこまで恐れる必要はなくなっているように感じられます。全体を通して聴くと、曖昧な<愛>が大きな布でほかのすべての曲の<愛>を包み込んでいるような、ふんわりとした心地よさを感じます。
○<部屋>と<空の色>
表題曲「タオルケットは穏やかな」には「家々の窓にはそれぞれが迷い」というフレーズが登場しますが、この曲は仮タイトルが「家々」であったことからも、「家」という単語が重要な意味を持っている気がしてきます。ここのフレーズでは、窓を通じて<家=部屋>の中の様子が映されています。<部屋>は生活を送る空間であり、同時に窓を通じて外の世界を見たり、反対に外から見られたりする場所です。「季節の果物」には「窓枠 夕暮れと遊び足りない まだ」と、窓の外の光によって<部屋>の色が昼から夜へと変化します。「こんな日に限って」では「朝が遠い夜 青白い部屋を流れる砂漠」と夜に染まった部屋が映し出されていて、「予感」では「朝焼けが綺麗で部屋は染まる」と、今度は夜から朝になりゆく<部屋>が登場します。このように、<部屋>は<空の色>によって表情を変える存在です。また、「月明かり」には<部屋>は直接登場しませんが、「真夏 夜の散歩 月明りとか」と歌われており、きっと散歩であるというからには<部屋>を出て歩いて、月の光を浴びて<部屋>に戻っていくのだろうということが想像できます。「気分」の最後でも「帰ろう」の繰り返しにより、上がったり下がったりする気分を落ち着ける場所としての〈部屋〉が描かれます。そして最後の「もしも」は「空の色がもしも違う色だったらこんな気持ちになるだろうか」というフレーズから始まります。この曲自体には<空の色>がどういう表情をしているのかについて言及はされていませんが、これまでの曲の中でいくつもの<空の色>が歌われており、ここまで聴いていれば空は時間や天気によっていくつもの彩りを持つということ、それと同じように<部屋>やその内部の生活の様子も変化するものだし、そこに暮らす私の気持ちも変化するのはごく当たり前のことだ、ということがわかるようになっているのではないかと思います。
○<わたしたち>のうたであるということ
このアルバムの一番の特徴は、歌われている対象がYou&IだけでなくWeを含むことだと思います。これは今までのカネコアヤノの曲にはあまりなかったのではないでしょうか。まずこのアルバムは、タイトルもそのまま「わたしたちへ」から始まります。前作『よすが』の「栄えた街の」にも「裸のままのわたしたち」というフレーズが出てきますが、ここで言う〈わたしたち〉はシチュエーションを考えるとYou&Iのことであると考える方が自然でしょう。しかし「わたしたちへ」の場合は、配信リリース時のジャケット写真に3人の子供たちが写っており、これはYou&IではなくWeとしての〈わたしたち〉についての歌なのだと確信することができます。このアルバムは、変わりたいけど変われない、変わりたいけど代わりがいない、自分は自分でしか生きることができない〈わたしたち〉ためのアルバムであるということが一番最初に示されるわけです。
その後にはいつもどおり〈わたし〉が主語である曲が続いていきます。次に〈わたしたち〉の姿が映るのは終盤の表題曲「タオルケットは穏やかな」の中の「家々の窓にはそれぞれが迷い」というフレーズです。先ほど<家=部屋>について書きましたが、「家々」はこの<家=部屋>がたくさんあるということです。アルバムのジャケットが撮影された高島平というところは大きな団地があるまちで、そこから私は「家々」ということばからいくつもの家によって建物が構成された団地の光景を思い浮かべました。団地の部屋どうしはタテヨコにいくつも並んでいて、同じ建物のほかの部屋の中を見ることはできません。でも同じ時間に、部屋の中ではそれぞれの人々が独立して、同じ場所で異なる生活を送っています。各々の生活の中には当然のように迷いがあることでしょう。そして、この部屋の中で並んで生活している人々こそ<わたしたち>であるのだろうと思います。みんなモヤモヤしながら、よくわからないことや見当違いのことがたくさんあるままだけれども、肩を並べてそれぞれの生活を送っている。映画だとすると、ひとつの部屋だけを映していたカメラがゆっくりとズームアウトしていき、画面にいくつもの部屋が映し出されるシーンのようです。ちょうど先月公開された映画『ケイコ 目を澄ませて』でもエンドロールのシーンで同じようなことを思いました。まだ公開中なのでこれ以上は言えませんが、もしこのアルバムと映画で同じようなことを感じた人がいたとしたら嬉しいなと思います。
このように「わたしたち」と「タオルケットは穏やかな」の2曲においてWe、というよりもたくさんの〈わたし〉がいる、と言った方が適切なのかもしれませんが、そういった<わたしたち>のための曲が最初と表題曲の2曲あることによって、そのほかの曲も<わたしたち>の生活を構成する一部であって、<わたしたち>のために歌われている曲なのではないかと思えてきます。この点においてカネコアヤノの音楽はこれまでとは違う新たなステージに入ったのではないかと思いました。
日々の生活では、気分が上がるよりも下がることの方が多いのではないかと感じることも多くあります。私はどうやっても私でしかいられないし、愛がいつでも生活を鮮やかにするとは限らない。けれどもそういう<わたし>はたくさんいて、同じ時代に同じような部屋で、その時々の空の色に染まりながら、その時々の迷いとともに生活を送っているに違いありません。<わたし>は近くにいる別の<わたし>を見つけることはないかもしれませんが、もしかしたら部屋の外を眺めると、遠くで見守っている誰かがいて、そこからやさしいギターの音色が聴こえてくるかもしれないと思うことができます。
カネコアヤノが20代の最後の仕事としてこのアルバムを出してくれて、<わたしたち>を勇気づけてくれたこと、これはとてつもなくありがたいことだと思います。2023年も早くもひと月が終わりますが、今年はこれで生きていけそうです。今年こそ夏の日比谷野音で、昼から夜に変わりゆく空の下、去年はまだなかったこのアルバムの曲たちに身を委ねることができれば、きっとその日は人生における最も豊かな一日のひとつになるに違いありません。