日本、英国での不妊治療経験記(日本編)
日本と英国の2つの国で不妊治療を経験しました。もう2度としたくないけれど、間違いなく私の人生を変えたこの経験を、記録に残しておきたいと思います。
不妊治療前の私
私が不妊治療をしていた時期は10年前に遡る。30歳目前に結婚し、夫を残し、単身で海外駐在していた。趣味も仕事も充実し、夢だった海外駐在生活を満喫していたものの、別居生活が長くなることへの不安、35歳を目前にそろそろ子供を考えねばならない年齢であると漠然と考え、勤め先へ帰国の希望を出した。希望はあっさりと通り、2011年夏、帰国の辞令を受けた。
そういう事態になるまで、自分が不妊で悩むなど全く想定していなかった。自分の体は健康過ぎるほど健康、今思えば不思議なくらい、自分には子供が生まれるのだろうという自信があった。中学生の頃、母親が回答したPTAのアンケートを興味半分で見たことがある。アンケートにしてはかなりの分量の質問があったが、その回答の数々からは、母親が子供(すなわち兄と私)ができた後にキャリアを半分は諦めざるを得なかったことと、それでも子供を育て、キャリアでは得難い幸せがあったことが読み取れた。母親がそんな風に思っていることが嬉しかったと同時に、そうか、子供がいるということはこんなにも幸せなことなのか、とじわじわと感動し、思えばその時以来、自分も将来子供を持ちたいと思っていたのである。
不妊治療の始まり
日本へ帰国して1年、なかなか妊娠しなかった。「妊娠」「不妊」をキーワードに検索を始める日々が始まった。母親からは「病院に行けばすぐ妊娠するらしいよ」と、誤った情報提供もあった。最初は「病院に行くほどではない」と思っていたものの、気になり近所の産婦人科へ行くことに。タイミング療法から始めたが、なかなか結果は出ない。毎月がっかりするが、知識のない私は、こうやって何度も繰り返すのだろうくらいに気楽に考えていた。半年が経過した頃、先生から「もしかして治療をステップアップした方が良いかもしれません」と言われた。治療?ステップアップ?先生の言っている意味がよく分からなかった。聞くと、報道で時々目にするものの、遠い世界の最先端の医学の話と思っていた「人工授精」や「体外授精」のことだった。どうも、体外授精に比して、人工授精というのは費用的にも、日数的にもそんなに複雑なことはなく、かつその近所の病院でできるらしい。
家に帰ってしばらく考え、夫とも相談の上、2012年11月、人工授精をすることに。ここまでやるのだから今度こそ、という思いだったが、結果は出なかった。先生からは、「もうこれ以上は当院ではできません、専門のクリニックを紹介しますか?」と言われた。
病院に通い始めてから、頭には常に不妊治療のことが離れなかった。病院通いで、しばしば仕事で休みをとらねばならず、急な休みを不妊治療についてひた隠しにしながら調整し、今度こそと期待してはがっかりすることを毎月繰り返していた。次第に、妊娠して産休に入っていく同年代の同僚や、病院で愛おしそうに胎児のエコー写真を見る女性、スーパーで見かける妊婦さんからは目を背けるようになっていた。
不妊治療1つ目の病院(日本)
体外授精なんて、倫理的問題すら孕む最先端の高度生殖治療、自分はそこまでするんだろうか・・・?これが最初に思ったことだった。でも、自分は子供が欲しいのではなかったか?そのために悠長なことを言っている時間はあるのか?なんでもすべきではないか?私は、子供が生まれない人生を想定すらしていなかったことに初めて気付きつつ、数日間悶々とした挙句、やるなら早い方がいいと決断し、紹介してもらった池袋のクリニックへ行くこととなった。
やると決め、そして早い方がいいと決断したので、人工授精ではなく体外授精を選択したが、金額は1回30万円程度する。この頃には相当思い詰めていた。年齢と様々なホルモンの値を見ながら「何割くらいの人が成功するのでしょうか?私は妊娠するのでしょうか?」と先生を毎度問い詰めていたらしい。ある日、先生から、話が長い、ネットでいろいろ検索しないほうが良い、と言われた。込み上げる思いを我慢しつつ、表向きは淡々と治療をすることにした。
この病院ではAMHの検査もした。数値は、「40代初め」という低い数値。その結果を棒読みで伝えた女医さんに恨みすら感じてしまった。
2013年1月、初めての体外受精にトライ。これまた頻繁な通院と自己注射に苦労しながら、それでも「これでやっと妊娠できるはず」という根拠のない期待をしていた。夜、リビングでひとり注射針をお腹に刺す毎日・・・こんなことまでするのか、と辛かった。結果は、2つ採卵。数日後、授精確認の電話をするため、オフィスを抜け出して電話をすると、先生から告げられたのは「あのねえ、卵が育たなかったの。また相談しましょう」という予想もしなかった内容だった。私は、体外授精のスタートラインにも立てないのかと呆然とした。
2013年4月、再度体外受精にトライ。先生は、今度はもう少し薬を強くすると言った。再度の自己注射と通院の日々。結果、3つ採卵、「一つ大きいのが育っている」と言われた。今回は2つの受精卵ができ、3日目に凍結。2カ月後の2013年6月に2つの授精卵をお腹に戻したが、結果が出ることはなかった。
セカンドオピニオン?2つ目の病院(日本)
余計な気をまわした母親から、私の小学校時代の同級生の旦那さんが、某有名大学病院の婦人科の先生であり、その先生に予約をとるよう勧められた。同級生の旦那さんとは、正直、全く気が進まなかったが、仕方ないと予約して一度診療してもらうことになった。
子宮の形も問題ないし、まだ若い(当時35歳)からこのまま続けてほしいと言われた。AMHの値についても、30代でもこの値が出る人は沢山いるから気にしなくてよいと言われた。池袋のクリニックについては「良い先生である」と、後述する新宿のクリニックについては「賛否両論があるが、実績をあげている」と言われた。
特に何か治療を受けたわけではないが、この先生と話して多少の希望をもてたことは大きかった。
不妊治療3つ目の病院(日本)
様々な本、ネットでの情報から、どうも新宿にあるクリニックが有名らしいということが分かった。とにかく実績数が群を抜いている。早い方が良いという考えのもと、2度目の体外受精を終えた翌月には新宿のクリニックの門を叩いていた。ブログ等で「この病院は何も考えを聞いてもらえずに、とにかく体外受精を勧められる」というような情報を見たが、それは自分には好都合、この頃にもう迷いはなく「体外授精をしてほしい、早く結果を出してほしい」と初回診断で伝え、即治療に進んだ。その月は、体外授精をした翌月ということもあってホルモンの値があまりよくなかったが、2013年8月には治療周期に進むことができた。
この病院は自己注射をすることはない代わりに、通院の回数はほぼ2日に1回。いつもどおり仕事に行くべく、5時に起きて6時半に病院に行ったことがあったが、着いた頃には既に病院の入るビルの階段に長蛇の列。眠気をこらえながらなんとか仕事に行く日々だった。ただ、自己注射をするよりは注射をしてもらった方がずっと楽だった。
通院の度に血液検査でホルモンの値を測りながら、卵胞の育ちと採卵の時期を見極めている点も、科学的な根拠に基づいているようで信頼を覚えた。前回の病院では、いつも卵胞の育ちを先生が視覚で判断し、またその先生が最初から最後まで一人でなんでもかんでもやっていた。新宿のクリニックでは毎回先生が異なり、複数の目で見ているところも良いように思えた。
何度も通院を繰り返し、そろそろ体力的にも限界だと思ったところで採卵日が決まる。今度は6つあるという。採卵日は幸い休日に重なり、無事6つの採卵を終え、2日後にお腹に1つ戻した。6つの採卵で希望の光が見えたように思えたのだが、なんと残る5つは受精卵が育たなかったという。ということはお腹に戻した1つだって、どれだけ可能性があるのだろう?すっかり意気消沈し、結果を待つ間も鬱々と過ごした。
自分はいつまでこの治療を続けるのだろうか、こんな通院生活に耐えられるのだろうか、子供のいない人生を考え始めたほうが良いのだろうか、仕事を辞めようか、と考えた。夫に、治療のために仕事を辞めようかと思うと切り出すと、もしかしてイギリスに駐在する話があるかもしれないよ、そうしたら休職して治療を続けられるかもしれないよ、イギリスの方がいろいろと進んでいるだろうし、と慰めの言葉が返ってきた。
その日は一人で夕食をとっているとなんだか気分も悪く、今までもそんなことはあったなあと思いつつ、いつも通り過ごしていた。トイレに行く。「あれ?」と思わず声に出してしまった。いつもと異なる兆候があった。なんだろう?でも期待してはいけない、期待してはいけない・・・ひたすら自分に言い聞かせ、2日後の結果診断の日を待つ。結果診断の日、その日も休日だった。暑い日に、本を読みながら、待合室で何時間も待つ。本の内容は面白くなかったが、結果について考えないことには役立っていた。
名前を呼ばれ診断室に入る。恐らく中国出身と思われる女性の先生だった。開口一番「今日は嬉しい報告ができます」と言われた。妊娠していること、ホルモンの値も良好で、この値だと順当にいけば80%の人が出産まで行きつくことを説明された。先生の言葉を聞きながら、震えそうになった。
妊娠後
実は、妊娠7週目あたりで「心音が遅い、通常の半分である、95%、この妊娠は続かないだろう」と言われ、再び絶望に陥ったことがある。また、妊娠2-3カ月の頃、仕事から帰る途中で大出血を起こし、今度こそ流産だと思い泣き叫びそうになったこともある。
心音については、翌週、宣告を受ける覚悟で診断にいったら、エコーで胎児を見ながら「ほら、ピクピク動く心臓が見えるでしょ?」と何事もなかったように先生から言われ混乱した。先生に「先週は別の先生に95%だめだと言われた」と伝えたところ、「よく見えなかったのでしょう、でも妊娠は最後まで何があるか分からないからね」と、私があまり期待し過ぎないようになのか、釘を刺された。
大出血の時は、ショックのあまりすぐ病院にいけず、仕事を2日も休み、やっと決意を固めて病院へ電話し、診断してもらうことになった。この時も結果は問題なし。恐らく血液の塊が出たのでしょう、ということだった。
「最後まで何があるか分からない」という言葉が頭に残り、妊娠期間はいつも不安を抱えながら過ごした。だが、心配をよそに胎児は無事育ってくれ、2014年、春爛漫の季節についに待望の男の子が生まれたのだった。