障害者と名付けたのは健常者
障害者、という呼び方に違和感がある。
東京都現代美術館でやっている『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』の中で
工藤春香の《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》っていう展示があった。
優生思想を進める側の動きが書かれた年表の裏には、障害者側の必死の動きが書かれていて
紙じゃなくて布にプリントされていたから表裏がすごく実感できたし
私散々自由に生きたい、差別なんか無意味だって思ってきたのに
実はこの年表の外側だけをなんとなく見てきた側だったのかもしれないって
少なくとも内側から外を見たことはなかった
内側が見えていたとしても、私はいつも外側にいたって気づいた
途端に自分が罪人みたいに思えてきて恥ずかしくなって
でも自分は内側の人じゃないから分からなくてもしょうがなかったって自分を正当化して
じゃあ私は外側の人なの?と自分に聞いて答えが出ずに苦しんだ
自分は明らかに内側ではないって思ってるのに
外側の人だって認めたくなかった
誰かを傷つける側にいるって認めたくなかった
外側と内側
健常者と障害者?
先月くらいにニュースで「視覚障害者の学生たちが電車に乗る体験をしました」ってやってて
そうやってわざわざ「私たちとは違う障害者の人たち」が私たちの「普通の日常を特別に体験しました」って報じるの
その子たちは本当にこうやってニュースにされることを望んでるのかなってモヤモヤしたのだけど
最後に流れたインタビューで
子供たちがあまりにもきちんと感想を話して、真っ当な受け答えをしていて泣きたくなった
「普通の大人たち」馬鹿だなあって
障害ってなんだろう
普通ってなんだろうか
かしこまって視覚障害者なんて言わずに
耳や手で世界を感じてる人たちが、目で世界を感じてる人たちの生活に遊びに来ました~とかそのくらい適当で良いのに
陸暮らしの人間が、魚の真似して海で泳いでるのと同じように
ちょっといつもと違うことしてみただけだ
普通、普通じゃないっていう区別がなくなればいいのに
そうやって区別してるから
いつも普通の人の方が偉くて、力があって
その人たちのせいで社会がどんどん汚れて死んでいく
勝手に「障害者」なんて呼び始めて
でも障害者じゃない私からしたら
正直どうしていいか分からないの
中学生の頃から障害者クラスの子たちは違う階にいたし
すれ違う時はちゃんと障害者クラスの子だ、って意識してた
パラリンピックに出てる人のことは障害者だって無意識に認識してるし
街で不思議な人を見かけて、障害ある人だって察した時にはそういう人なら仕方ないかあって片づけたり
ちゃんと自分の中に障害者っていう単語が刻まれてて
それで人を判断してきたことが少なからずあったんじゃないかって思って苦しくなる