けものフレンズ9.25事件 3周年に寄せて
たのしー黄金時代が唐突に終わりを告げた9.25事件から3周年.
私とけものフレンズの思い出を書き散らしてみました.
けものフレンズ1期との出会い
私がけものフレンズを知ったのは,2017年2月ごろでした.複数の友人から視聴を勧められ,5話「こはん」(あるいは6話「へいげん」)からリアルタイムでの視聴を開始したのを覚えています.
既に4話が放映されていたこともあり,1話の入園試験は問題なく突破.
今言っても後出し感はありますが,当時のファーストインプレッションとして,良くも悪くもこれは普通のアニメではないな,という感覚がありました.
決定的に面白さを確信したのは3話「こうざん」です.アルパカさんやトキの演技が素晴らしいというのはもちろんありますが,30分のアニメ1エピソードで表現できるとは思えない,物語としての力強さを感じました.
今思うと,やはりその面白さの根底にあったのは,単純明快な「行きて帰りし物語」の構造と,その過程でかばんちゃんが成し遂げる孤独の解消,2つの離れたものの間に橋を架ける暖かい奇跡だったのだと思います.
視聴スタイルとしては,ミーム的側面よりも考察的な側面に重きを置いていたように思います.7話でとしょかんが齧られたりんごの形をしていたあたりで,これは何かものすごいメッセージを秘めた作品であると確信し,考察班に片足を突っ込むことになりました.
家にテレビが無いため,最速放映をリアルタイムに追いかけることはできず,ニコニコで後から追いかける形で視聴していました.
11話ショック
10話が放映された頃だったでしょうか.親戚の家に行く用事が生じたのは幸運なことでした.おかげで,11話はテレビで,最速視聴することができたのです.
11話ショックは本当に衝撃的でした.サンドスターロー噴出に伴うボスの警告,強大な敵の存在を示唆する足跡,ボスの指示に従わず山に向かうかばんちゃん,墜落したB-2?爆撃機……と,前半から普段のけものフレンズとは明らかに違うムードがあり,心がざわついていました.アラフェネの到着が一服の清涼剤となるものの,状況は悪化し続けます.
サーバルちゃんが食べられたあたりで,もはや心はざわつきを通り越して,パニック状態に陥りました.口を空けたまま,目を見開いて視聴を続け,エンディング,そして誰もいないPPP予告.
呆然としたままテレビの電源を落とし,ソファから立ち上がり,パソコンに向かいました.奇妙な感じですが,この一連の動きをしたということが,視聴中の感想よりも妙に印象深く脳裏に焼き付いています.今でも,ソファからパソコンへ向かう際の視界が思い出せるくらいです.今見たものを理解しようと,脳がオーバークロックしていたのでしょう.
11話視聴後,私は正式に(正式に,というのもよくわからないですが)「けものフレンズ考察班」の仲間入りを果たしました.最初に執筆したのは,かばんちゃん達のこれまでの旅の道のりに関する考察でした.目的は唯一つ,12話の展開を予測すること,かばんちゃんが救われる未来を模索することです.
もう3年半が経ち,11話ショックも「歴史」になりつつあるように思うので,改めて当時リアルタイム視聴していた私の経験を遺しておこうと思います.
12話放映までの1週間はまさに地獄でした.
一日中かばんちゃんのことを考え,家とか高速バスの中とか,なんでも無い場面で唐突に11話最後の独白を思い出しては早起きする,そんな状況でした.未だに,単一の出来事が私の精神に与えたインパクトの大きさとして,あの事件を上回るものはないでしょう.
そして待望の12話.下手に言葉にすると陳腐になってしまいますから,最高,その一言に尽きます.リアルタイムで視聴し,ニコニコ生放送で視聴し,当時けものフレンズ実況をしていたりーぱーおにいさんの配信を視聴し,そして1話「さばんなちほー」に帰り,何度も何度もその余韻を味わいました.
けものフレンズは社会現象になった,と主張すると論争を呼びそうですが,少なくとも私の中で,2017年はけものフレンズの1年となりました.人生で初めて(再生装置を持っていないにも関わらず)ブルーレイを買ったり,けもフレファンの集まる国際的なDiscordチャンネルに参加して英語の勉強をしたり,一番安いヘパリーゼを探してコンビニを行脚したり,コンセプトデザイン展に行き,その足でけものフレンズがーでんに赴いたり.
近所の動物園に赴いたりもしました.実は私は動物があまり好きではありません.特に動物園については,幼少期に行ったときの獣臭と,その中でお弁当を食べて吐きかけた事がトラウマになっていたのです.
私の中のOSのような,何か根本的なものが不可逆的に変化させられたような感覚でした.けものフレンズを視聴する以前の自分がどうやって生きていたのか思い出せません.ただ,少なくとも私の世界はけものフレンズ以前よりも遥かに彩りに満ちたものになっていました.
2期制作決定,コラボによる「けいばじょう」「ふっくら」の公開と良いニュースが続き,この幸せが永久に続くものだと思っていました.
そんな幸せの絶頂で発生したのが,あの9.25ショックです.もはや当時どんなことを思っていたか思い出せませんが,大晦日のけものフレンズ特番の中だったでしょうか,降板の決定は覆らないという最終報告が挙がったのを見て,玉音放送を聞いた一般市民もこんな感じだったのかなあなんて考えたりしてたことは覚えています.
やはり,2017年はけものフレンズの年でした.
けものフレンズ2
けものフレンズ2についてはもう語らない,とどこかで言った気がするのですが,撤回して語っちゃいましょう.
2はケムリクサと並行してほぼリアルタイムで視聴していたのですが,1話からすでに危険信号を感じていました.前述したとおり,私のけものフレンズ考察班としての処女作はかばんちゃん達の旅路に関するものです.なので,2においてもキュルル達の旅路や冒険の舞台について検討を進めていたのですが,そのための材料がまるで見つからないのです.
本来,これからの行き先を示すはずであるスケッチブックも,次の絵を見せてくれないし,旅のワクワク感が欠落していました.
2話は特に酷かったですね.画面には常に白っぽいフィルターがかかっているように感じるし,遊具が突如現れては消えるし,キャラクターは瞬間移動しまくるし,話の流れもしっくりこないし.
とはいえ,降板騒動を作品の評価に結びつけるべきではないと思い,4話くらいまではアンケートで3と4を交互に付けていたように思います.
5話,6話でかばんちゃんが登場したわけですが,その変わりようと描かれ方には悪い意味で驚かされました.はじめてアンケートで5をつけたのもこの頃だったと思うので,「一線を超えた」瞬間だったのでしょう.作品内の物事について考察するのを諦め,なぜこれはこんなにも面白くないのか,作品世界から一歩引いた考察をするようになりました.「けものフレンズ考察班」から,「けものフレンズ2考察班」へとクラスチェンジしたというわけです.
9話,イエイヌちゃん回については,初回視聴時,既に真面目に観る気を失っていた私には,それほど酷い回には感じませんでした.ニコ生で視聴して,後からイエイヌちゃんの扱いがひどすぎることに気づいたくらいです.
もはやキュルル達の旅には興味が無く,かばんちゃんの旅に関する追加情報を見逃さないためだけに視聴しているような状態でした.
そして12話.友人とDiscordで実況しながら見ていたのですが,終了時の感情はただただ悲しい,それだけでした.友人と感想を交換している中で,だんだんと悲しみが怒りへと変化し,「私はこの作品に中指を突きつけなければならない」という使命感とも衝動ともとれぬ何か,やはり呪詛と呼ぶのが適切でしょうか,そういったものに心が埋め尽くされました.
呪詛を通話相手の友人にぶつけてしまいそうになってDiscordを終了し,腕を震わせながらAviutlを起動し,そうやって生まれたのがあの怒りの動画です.今となっては恥ずかしい限りです.あの動画は,当時の狂乱を残す意味でKFPの恥の記念碑であり,私の恥の記念碑でもあります.何度か非公開にすることを検討した(実際に非公開にしたこともあった)のですが,やはりあの動画は残しておくべきだと考えています.ただ,自分で見返すことはしたくありません.やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのです.
悪意説と無能説
さて,2の評価についてですが,アレはスタッフの悪意に基づく1期へのヘイト創作だったのでしょうか.それとも,彼らに悪意などなく,無能だったが故に地雷を踏み抜き続けてしまったのでしょうか.放映から1年以上が経った今,冷静になって改めて検証する必要があるでしょう.
まずは無能説からです.
物語としての完成度はさておくとしても,2には一貫したテーマがあるように感じました.「1期のテーマを否定する」というただ1点において,2は見事な構成をしていたと思います.
けもフレ1期のテーマとは,(これもやはり人によって異なる主張があると思いますが,私の中では)「ヒトも動物である」という主張だったように思います.
1期におけるかばんちゃんは人間ではなく,あくまでヒトという動物の一つとして一貫して描かれていました.最初に示されたかばんちゃんの長所が,知性の高さではなく排熱効率の良さであったことはそのことを象徴的に表しています.
かばんちゃんがヒトのフレンズとして他のフレンズと交流を深め,その中で自分にしかできないことを見つけていく,それが,けもフレ1期の美しさだったと思います.
対して,2におけるキュルルは一貫して「自分はけものではなくヒトである」と主張します.他にも,かばんちゃんが知性に基づいて叡智タイムを発動する一方で,キュルルは知性というよりは過去の記憶を活用して遊びを提供します.かばんちゃんがフレンズの手助けに積極的に関わろうとする一方で,キュルルは面倒事を回避しようとします.そして,かばんちゃんがパーク(キョウシュウエリア)の外にヒトを探しに出たのに対して,キュルルはパークの中に自分の居場所を見出します.
明らかに,キュルルはかばんちゃんと対極の存在として描かれてきました.
果たして,無能なスタッフがこれほどまでに一貫したテーマを作品内に埋め込むことができるでしょうか.私は,ありえないと思います.アニメとして普通につまらないという問題点はさておくとしても,少なくとも何らかの主張を作品に埋め込むという点に関しては,無能説は真ではないと思います.
では,無能説が正しくないのならば,悪意説が真なのか.確かに,放映後に問題になったSNSにおける関係者の諸々の発言を加味すると,「1期スタッフへの悪意説」の信憑性が高まるのは仕方ないでしょう.
しかし,考察にあたって,私はあくまで「作品と作者を切り離す」立場を取りたいと思っています.自分の立場を再確認してから改めて考え直してみると,悪意説もまた正しくないのではないでしょうか.
「2とは,ヒトがけものの一員として受け入れられるやさしいせかいのみが描かれている1期に対し,ヒトがけものに与えうる悪影響を描こうとしたアンチテーゼであった.ただし,作品内での描き方の悪さと作品外の騒動が重なり,視聴者に与える心象は最悪な感じになった」というのが現在の私の見解です.
1期のテーマを否定することは,必ずしも1期の物語やスタッフへの悪意の存在を意味しません.テーマの否定はあくまで「反論」とでも呼ぶべきものであり,そこに悪意を見出すべきではないでしょう.むしろ,テーマを汲み取った上でそれに反論することは,生産的な善い行いであり,最大級のリスペクトと言えるのではないでしょうか.
とはいえ,そもそも人の業的な要素は,1期でもトキの存在やこはんでの別れのシーン等で間接的に,そして効果的に描写されています.続編と銘打ってアンチテーゼ100%の作品を後からブチ上げたところで前作の劣化版にしかならないわけですが,それに気づかなかったのだとすれば,これは1期を適切に読み取れていなかったという意味では,やはり無能というのが正しいのかも.
ただし,「1期を読み取れていないから無能だ」という攻撃をするからには,当然「2期を読み取れていないお前が無能なんだ」というブーメランが帰ってくることを覚悟しなければなりません.
私は2を正しく読み取れているのでしょうか.全くわかりません.だから,この攻撃はしないことにします.
いずれにせよ,悪意説を信じて呪詛を溜め込むよりは無能説を信じる方が,まだ健全でしょう.最も良いのは,「私には2が理解できなかった」という姿勢を取ることだと思います.作品が悪いのではなく,読み取れなかった自分が悪いのでもなく,単に相性が合わなかった.
物語というのは,作品と受け手の相互作用の中で生まれるわけですから,当然,そういうことも起こりうるわけです."not for me"の精神を大事にしていきたいです.
これから
思えば遠いところまで来ました.1期放映から3年以上というある程度長い時間が経っているわけで,当然といえば当然ですが,けものフレンズを取り巻く状況も,私自身も,大きく変わったなあと思います.
9.25ショック,けもフレ2と色々辛いことがありましたが,こういった出来事が無ければ今の自分はおそらく居なかっただろうことを考えると,これらの悲しみも無かったことにしてはいけないのでしょう.
「千一番目の英雄」動画で,「じゃぱり兄貴も呪詛から立ち直った英雄だ」なんてコメントを頂いたのですが,とても嬉しかったです.
モノミスを自己啓発的な方向に援用することには懐疑的でした.しかし,辛いことがあっても,そこから何か有意義なものを見つけ出して帰ってくることができる,というのは,確かにかばんちゃんをはじめとした幾多の英雄が示しているヒトの特徴,あるべき姿の一つなのかもしれません.
現在,けものフレンズ考察班の一人として思っていることとしては,ファンダムの分断が深刻であること,そして自分の動画が少なからずその分断の拡大に寄与してしまったかもしれないことを悲しく思っています.
私はかばんちゃんを敬愛しています.ネタではなく,真面目にかばんちゃんを信仰対象とする宗教に所属していると認識しています.もし面接で尊敬する人物を問われたら,かばんちゃんと答えるでしょう.
かばんちゃんの本質は,Kemonomythで指摘されていた通り,「離れた要素の間に橋を架けること」であると思います.にもかかわらず,自分自身が橋を壊すことに寄与してしまったかもしれないことに,深く後悔しています.
であれば,けものフレンズ1期を愛する者として,かばんちゃんの信奉者として,目指すべき道は明らかです.つまり,ファンダムの間に再び橋を架けることです.みんながフレンズだったあの頃を取り戻したいのです.
この記事を書くにあたり,先日,久々に2を通しで視聴したのですが,記憶していたよりは意外と苦行感がありませんでした.1期と同じ姿勢で視聴すると裏切られてしまうかもしれませんが,場面場面を切り取ってみれば,2にも案外面白さがあるものです.(個人的なここすきポイントを挙げるとすれば,9話のカラカルは特に,ツッコミ役としてのギャグセンスが高いと思います.)
2が嫌いだという方は,是非一度,肩の力を抜いて,例えば何かの作業をしながら横で作業用BGMとして流し見してみてはどうでしょうか.1期との連続性に関しても,「無数にある二次創作の一つに過ぎない」と考えれば,「そういうビターなのが好きな」人もいるよね,くらいに思えるでしょう.
逆に,2が好き,あるいは2アンチアンチの方には,ぜひここすきポイントや考察を発信してもらいたいと思います.放映当時は確かに発信しづらい風潮がありましたが,1年以上経った今ならば,多少は状況が良くなっているのではないでしょうか.
IPやファンダムに対して,自分に何かができるというのは思い込みが過ぎるかもしれませんが,私もそういった建設的な方向に貢献できれば良いなあと思っています.