先輩と僕3 マイペース
十二月二四日、午後十一時。僕は一人、事務室のパソコンに向かっていた。
仕事で大失敗をした。他課にも客にも迷惑がかかる大失敗。今日一日、その後処理に奔走したが、それでも全ての処理を終えることができなかった。今日中に手をつけなければならない仕事の、やっと半分が終わったところ。今夜は徹夜になりそうだった。
今日何度目になるかわからないため息が口からもれた。なぜあんなことをしてしまったのかと、考えても意味がない過去をついつい追ってしまう。
事務所の扉が開く音がして、ゆっくりとそちらを振り返る。僕の仕事を手伝うために残ってくれた係長が、買い物袋を手に提げてこちらに歩いてきた。僕の隣のデスクに座ると、おもむろに袋を開ける。中から出てきたのは、コンビニで売っているような小さなロールケーキとエクレア。僕と係長の、ちょうどふたり分。
「疲れたろ。ちょっと休憩するぞ」
「・・・はい、ありがとうございます」
わざわざ外に買いに行ってくれたのだろう。本当はそんなことをしている場合ではないのかもしれないが、素直にその好意に甘えることにする。席を立ち、事務所の隅にある流しのスペースでホットコーヒーを二杯作ると、デスクに持っていく。
「どうぞ」
「おお、悪いな」
係長はコーヒーを一口すすってから、エクレアの袋をあけて食べる。僕もそれに倣ってコーヒーをすすったが、エクレアに手を伸ばす気力はなかった。
「今日は大変だったな」
おもむろに係長が口を開く。
「はい、もっと早くミスに気づいてなきゃいけなかったんですけど・・・失敗しました」
「そんなの誰にでもある。気にするな」
ぶっきらぼうだったが、その言葉には温かみがあった。その言葉に、僕の心の柔らかいところが刺激される。思わず、いろいろなことが口をついて出ていた。
今回の失敗のこと、仕事で上手くできないこと、いつまでたっても成長できていないこと。普段口にできずに溜め込んでいたあれやこれやが、堰を切ったように溢れ出す。係長は時たま相槌を挟みながら、黙って話を聞いてくれた。
やがて吐き出すものがなくなり、言葉が止まる。自分の中が空っぽになった感覚。その空白に、係長の言葉がするりと入ってきた。
「そんな焦らなくてもいいぞ。もっとゆっくりやればいい」
俯いていた顔が、ゆっくりと前を向いく。正面の係長が静かに、こちらを見ていた。
「お前まだ三年目だろ。あと何年、働いていくと思う? それまでにたくさん失敗しながら、少しずつ、いろんなことができるようになっていけばいいんだよ」
「でも、失敗ばかりしてちゃ・・・」
「失敗なんて何回でもすればいい。俺なんてもう四十五だが、未だに失敗するぞ。お前が今回しでかした失敗よりも、もっとでかい失敗を、それこそ両手じゃ足りないくらいやってきてる。それでもちゃんと働いて、今じゃ係長なんてやってるんだ」
地に足のついた、自分の経験。係長の言葉は、まっすぐこちらに届いた。大したことなんて言ってないし、話の内容もありきたり。だからこそ、僕は力が湧いてくる気がした。
「お前はまだ失敗が許される年なんだから、何回だって失敗すればいい。客は別としても、まわりの課はちゃんと許してくれる。うちはそういう職場だからな。だから気にするな」
それだけ言うと、話すことは話したというように、係長はエクレアをもう一口食べる。それ以降は、特に何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。僕は俯いて、手元のコーヒーを見つめながら、係長の言葉を反芻する。三十分前まで頭から離れなかった失敗のことは、不思議となくなっていた。
エクレアにゆっくりと手が伸びる。一口食べると、甘いカスタードクリームが口の中に広がった。こんどはコーヒーを飲む。胸の辺りがじんわりと暖かくなった。
「・・・係長、ありがとうございます」
「おう、せっかくのクリスマスイブだからな。辛気臭いとこっちもまいるんだよ」
少しおどけた言葉が帰ってくる。その言葉で、今日がクリスマスイブだと始めて思い出す。
「すいません、係長。もしかしてご家族と過ごす予定とかありましたか?」
とっさに謝ったが、これには苦笑いが返ってきた。
「俺、嫁さんと仲悪いから帰りたくないの。そういうお前は予定なかったのか?」
「絶賛恋人募集中です」
「なんだ、まだいないのか。んじゃ、今からきちんと結婚相手は選んだほうがいいぞ」
「係長の言葉だと妙に説得力がありますね」
「当たり前だ。なんであんなおっかない嫁さんと結婚したか、今でも後悔してるくらいだ」
それからしばらくは、係長と男女関係の話でもり上がった。会社のオフィス、男ふたり、話の内容が恋と結婚。傍から見れば寂しく悲しいイブだったが、不思議と悪い気はしない。
オフィスに響く笑い声は、夜更けまで続いた。
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