八 涙
降りた駅は、無人の小さな駅だった。
線路の数も一本で、周りに人家も見当たらない。線路に沿うように国道が走っており、車が忘れたころに通り過ぎていく。
ホームに立って線路のほうを向くと、その向こう側に湖が広がっている。湖は山を背景にするように広がっており、水面は青空を映してきらきらと輝いている。
その風景に翔太は感動を覚える。すこしひんやりした風がほほをなで、心地よい開放感を感じる。このままずっと、この風景を黙ってみていたい気分だった。
ふと思い出して隣を見ると、楓もどこか感動したように、口を少し開いてその風景を眺めていた。その目には今までのようにどこか遠くに視線を向け緊張している雰囲気はない。その表情は、まぎれもなく驚きと感動を表していた。
そのまましばらく、二人は黙ってその湖を見つめていた。後ろの国道を通り過ぎる車のエンジン音も二人の耳には入ってこない。それなのに、水鳥が水面に降り立つかすかな水音や、風が湖のほとりの草むらを揺らす音だけはしっかりと聞こえてきた。
どれほどそうしていただろうか。ふと横をみると、楓がこちらを窺うように見つめていた。そこで翔太は楓の存在を思い出す。楓の存在を忘れてしまうほど、翔太は湖に見入っていたのだ。
「ああ、ごめん。もうそろそろ行こうか」
「うん」
静かにうなずいて、楓は自分のキャリーケースを持つ。翔太も自分のスポーツバッグをもって、駅を出た。
駅といっても、ホームと小さな小屋のようなものがあるだけである。当然、自動改札機や券売機もない。二人は駅から、国道にそって続いている歩道に出た。
右手は自分たちが電車に乗ってきた方向である。遠くに目を向けても山しか見えず、道と線路が並行して延々と続いているだけである。
左手を見てみると、少し行ったところに看板が立っていた。『ようこそ、自然と緑あふれる街へ』と書かれたその看板には、そのあとに町の名前が載っている。どうやら無事目的地に着いたことをその看板は教えてくれた。ここからに十分ほど歩いたところに、自分たちが今日泊まる民宿があるはずだ。
「まず民宿に行って荷物を置こうと思うんだけど、いいかな?」
翔太が道の先を示しながら楓に尋ねると、楓は無言でコクリとうなずく。そうして二人は並んで歩き始めた。
左手に湖を見ながら、二人は無言で歩いた。それでもなぜか翔太は移動中のような息苦しさを感じなかった。なぜかこの場所では、無言で歩いたほうがいいような気さえした。楽しくおしゃべりしながら歩いてもいいかもしれないが、黙ったまま歩いたほうがここの雰囲気を壊さずいい気がした。時折湖のほうからやさしい風が吹いてきて、身体をなでるのも心地よい。
自分の左側を歩いている楓を見ると、その表情もいつもより心地よさそうに見える。来る途中は少し心配もしていたが、やはり楓をここに連れてきてよかったと翔太は思った。
駅を出てに十分後、翔太と楓は目的の民宿に到着していた。扉をあけると、中から一人のおばあさんが出てきて笑顔で二人を出迎えた。背筋が少し曲がっているように見えるが、足取りはしっかりしており、表情も生き生きしている。この人がこの民宿の管理人のようだった。
「こんにちは。今日ここに止めていただく相田です」
「こんにちは。長旅御苦労さまでした。お部屋のほうにすぐご案内しますのでおあがりください」
おばあさんに促されるまま翔太と楓は上がり、部屋へと向かう。あてがわれた部屋は、二階の一部屋だった。
「ここがお客様のお部屋になります。お出かけになるときはこちらのカギで施錠してからフロントにお預けください」
「ありがとうございます」
「当民宿には本日お客様だけのお泊りですが、お風呂は一つしかないため申し訳ないのですが交代で入っていただくことになります」
「はい、大丈夫です」
「では、何かありましたらフロントに声をおかけください。どうぞごゆっくり」
そう言っておばあさんは部屋を出て行った。翔太はぐるりと部屋を見回してから、隅に荷物を置く。広さは十畳。部屋の真ん中にはちゃぶ台が置いてあり、隅にはテレビ。押入れを開けると、二人分の布団が置いてあ……。
「あ…」
翔太はそこでとんでもないミスに気がついた。二人で一部屋を予約したが、今一緒に来ているのは楓である。同年代の女の子。ここに二人で泊るということはつまり同じ部屋で寝るということで…。
「ねえ」
「はい!」
そんなことを考えていた時楓が声をかけてきたため、翔太は思わず飛び上がって返事をする。おそらく同じ部屋に連れてこられたことを問い詰められるだろうと思った翔太は必死で他意はないことを弁明しようと頭を回転させたが、翔太が何かを言う前に楓のほうが先に口を開いた。
「私、ちょっと、行きたいところが、あるんだけど…」
しかしその言葉を聞いて、翔太の焦りが少しおさまる。冷静に考えると、楓から声をかけてきたのはこの旅行中初めてかもしれない。
覚めてきた頭で楓を見ると、楓の表情は移動中と同じように、いや、それ以上に緊張しているように見えた。身体の横でキュッと握られたこぶしが少し震えているのがわかる。それをみて、翔太はようやく冷静になることが出来た。
「いいよ。一緒にいこうか」
楓の緊張が何から来るのかはわからないが、すこしでもその緊張を和らげようと翔太は笑顔を浮かべる。下手な作り笑いだったが、楓は少しだけ安心したようでコクリとうなずいた。
楓が行きたいと行ったのは、近くの高原だった。冬になると雪が積もりスキー場にもなっているというその高原は、この民宿から歩いて五分ほどの場所にあるリフトに乗って行けるということだった。簡単な道順を民宿のおばあさんに聞いた翔太は、楓と一緒にそのリフト乗り場へと向かう。歩いている間中、楓はやはりどこか緊張した様子で無言で歩いていた。
何か話でもして気を紛らわせた方がいいのではないかと翔太は考えたが、自分はそんなおしゃべり上手ではない。それに、楓に何か話しかけても淡白な返事が返ってくるだけで、おそらく会話はあまり弾まないだろう。翔太はどこか息苦しさを感じながらも、楓の希望をかなえるために目的地まで歩き続けた。
到着した場所には、一本のリフトが山の上へと延びていた。リフトの横には斜面一面の木をすべて切り取った場所があった。おそらく、冬になればスキー場のゲレンデとなるところであろう。
リフト乗り場には観光客らしい人がちらほらと見えた。登山をするような格好の人や、カメラと三脚を持った人などがまばらにリフトに乗っている。翔太たちもリフト券を買い、その人たちと同じようにリフトに乗った。
リフトは四人乗りのクワッドリフトだったが、翔太と楓は二人で乗る。無意識のうちに座った位置はリフトの真ん中で、まるで二人より添うような形にだった。
リフトが登っていくにつれて、楓の緊張は少しずつ高まっているようだった。表情が一層固くなっていくのがわかる。安全バーに乗せられた手は震えており、唇はキュッと結ばれていた。
リフトが登り続ける間、翔太は何とか楓の緊張をほぐせないかと頭をめぐらした。楓が何に呈して緊張しているのかわからないし、そもそも楓がここに来たいといった理由もわからない。そんな状態で緊張をほぐすなど何か気のきいた話しかないような気がしたのだが、それも翔太には出来ない。それでも何かしてあげたい、何とかできないかと考えるうちに、翔太の頭にひとつだけアイデアが浮かぶ。それはあまりにも不器用で、恥ずかしいことだったが、それでも、楓のためになるならと翔太は手を動かした。
その手が、そっと楓の肩に触れる。緊張した表情でリフトが登る先に視線を向けていた楓はびっくりしてすこし身体を震わて翔太のほうを振り向く。あまりに緊張していて、翔太の存在を忘れていたようだった。そんな見慣れない楓の様子に戸惑いながらも、翔太は出来るだけやさしく口を開く。
「大丈夫?」
しばらく無言で翔太のほうを見つめていた楓は、やがてゆっくりとうなずく。その表情はやはり緊張したままだった。
「もしいやなら、リフトを降りてすぐ引き返すこともできるよ。もし今日が嫌なら、明日来てもいいし。だから、無理しなくて大丈夫だよ?」
とてもストレートな、不器用な心遣い。それでも、翔太は気のきいたおしゃべりも、緊張をうまくほぐす方法も知らない。だから素直に、今の気持ちを楓に投げかけた。
少しだけ、迷うように楓は視線をさまよわせた。安全バーに乗せられた手はいまや緊張のあまり関節が白くなるほど強く安全バーを握り締めている。翔太が触れる肩からも震えが伝わってくる。それでも、楓はすっと視線を翔太に戻し、しっかりと首を横に振った。
「…大丈夫。ありがとう」
そう言われれば、翔太はもう何も言えない。依然楓は緊張しているようだったが、それでも翔太はその肩から手を離す。楓は翔太にむけていた視線をまた前にむけ、しっかりとリフトが進んでいく方向を見つめる。緊張は抜けていなくても、その表情にはしっかりとその緊張と戦おうという意思が見て取れて、翔太はそれ以上何もいわなかった。
やがて、リフトの終着点に到着した。
リフトの終着点は小屋のようになっていて、その小屋の中にリフトが吸い込まれるように入っていく。安全バーを上げて、減速したリフトから翔太と楓は地面に降りた。リフトから地面に降りるのがうまくいかなかったようで、楓が思わずふらつく。とっさに、翔太は手を伸ばして楓を支えた。
「大丈夫?」
あわてて顔を覗き込むと、楓は緊張しながらも、大丈夫というように笑顔を作ってうなずいた。ゆっくりと自分の足で立ち上がる楓から翔太は手を離し、楓の横に並んで歩きだす。そうして、薄暗い小屋の中から、二人は一緒に外に出た。
そこには、今までに見たこともないような美しい風景が広がっていた。
他にもっと表現の仕方があるのかもしれない。しかし、翔太にとってその風景は、それ以上の言葉で言い表すことのできないものだった。
正面に見えるのは遠くの山々。ところどころその頂上に雪を残すそれらは、言いようのないほど素晴らしいコントラストと風景を作り出している。空の上には、真っ青な空にイントネーションを加えるかのような白い雲が点在し、絵にかいたような絶景を作り出している。
正面のそんな景観から横に視線を移すと、色とりどりの花が緑の芝のあちこちに点在している。バスケットコートが三つは入るだろうと思われるその広い芝生の先には斜面に沿った林があり、そこから小川が流れてきて自分たちの前を横切って左側へと続いている。左側からも小川が流れてきており、その小川と合流してリフトで登ってきた方向へと流れていた。そのまま左側へ視線を向けると、小さな滝が流れ落ちていて、涼しげな風をこちらに送ってきていた。
まるで楽園。この風景を美しいと言わずなんと言おうか。美しいという言葉がこの場所のために存在したかのような錯覚さえ受けるその場所に、翔太は言葉も出ずに目を奪われ立ちつくす。今の気持ちをどう言い表していいのか分からず、思わず求めるような視線を隣の楓に移した時、翔太の感動は一瞬にして吹き飛んだ。
楓が、涙をほほに流して、その風景を見つめていた。
なにがどうなったかわからず、翔太は思わず反応に困る。と、楓の足から力が抜け、ふっと膝が地面に着いた。翔太はすぐさまかがみこんで、楓の身体が倒れないように支える。楓は力の入らなくなったその身体を翔太に預け、嗚咽を漏らし始めた。
「か、楓?」
肩を揺らし、翔太は必死に呼びかける。しかし、楓の涙は止まらず、一向に泣きやむ様子もない。翔太の服を助けるように掴んできて、翔太は思わずその手を握った。それでも楓は泣き続ける。
「楓? 楓、大丈夫?」
翔太は必死に呼びかける。すると、楓の口から嗚咽とともに、何か言葉が聞こえた気がした。翔太はその言葉を聞き取ろうと、楓の口に耳を近付ける。本当にそう言っていたのかはわからないし、嗚咽がたまたまそう聞こえただけかもしれないが、翔太の耳にはこう聞こえた。
お母さん、と。
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