四 できつつある日常

入学してから三週間もすると、新しい環境にも慣れ、学校には日常というありきたりな空気が流れ始める。

 翔太にとっても、それは当てはまることだった。

 クラスでは依然友人はいない。たまにクラスメイトとかわす言葉も、事務的な者しかなかった。

 それでも翔太は、学校で居場所を見つけつつあった。

 昼食の時間になれば屋上へ行き、楓と一緒に弁当を広げる。相変わらず会話は少なく、座る距離もすこし縮んだだけ。それでも、翔太は屋上にいるのが嫌ではなかった。

 そして放課後になると部活動へといった。

 いまだ仮入部期間で、参加できるのは最初の一時間だけという決まりがあったが、それでも翔太は毎日のように卓球部に行き、毎日のように良平と球を打った。

 良平とは校内でも一度出くわした。お互い移動教室の途中で、良平は何人かの友人と一緒にいたが、方や翔太は一人で歩いていた。なんだか気まずい思いをして視線をそらしてしまったが、その日の部活であった良平はいつもと変わらない良平だった。

「ふー、今日もごっついい汗かいたわ」

 部活終了後、着替えながら良平が言う。おじさんみたいだよ、と翔太がつぶやくと、いやいや、と良平が首を横に振った。

「俺お遊びで打つのも好きやけど、そうやって打つとこんな汗はかけへん。翔太とやるとガチで打たなかんぶんこんな汗かけるんや。感謝しとるで」

 だからこれからも俺と打ってくれ。そう笑顔で良平はつき足した。

 そんな笑顔を見て、翔太は心の中が暖かいものであふれる。おそらく廊下で一人で歩いている翔太を見て、良平は気を使ってくれているのだろう。人付き合いは苦手かもしれないが、俺はそんなことは気しない、と。口では出さないが、良平のそんな気遣いが翔太は嬉しかった。

 そんな風に月日はたち、明日はとうとう部活登録の日となった。明日の部活動で、部長または顧問に部活動登録用紙に名前を書いて提出すれば登録完了となる。翔太はすでに配られている登録用紙に、自分の名前を書いてかばんの中に入れていた。

 自分が部活動に参加するのがうれしくて、翔太は弾んだ気持ちで屋上の扉をあける。そこには今日も、楓が座って昼食を食べていた。

 相変わらずの無表情で、遠くの山を見つめている。結局なぜ山に行ってみたのかは聞けないままだったが、人には聞いてほしくないこともあるだろうと翔太はそれ以上その話題に踏み込まないでいた。

 まだ楓の隣に座ることはできず、翔太は楓から少し離れた所に座る。そのまま弁当を広げて、自分も楓が見つめる山に視線を向けた。今日はとてもよく晴れていて、山の緑がくっきりと見えていた。

 天気のいい日は気持ちがいい。翔太は大きく息を吸い込んで春の空気を肺いっぱいに満たしてから、静かに吐き出す。そうしてから弁当を一口ほおばった。いつもと変わらないはずの弁当も、どこか今日はおいしく感じる。

 明日が部活登録の日だから、浮かれているのが自分でもわかった。そこでふと、あることに思い当って翔太は楓に聞いた。

「ねえ、清泉さんは何か部活動に入る?」

 放課後の帰り道、楓を見たことは一度もない。最近は翔太が部活動に行ってしまうためということもあるだろうが、入学したての頃、仮入部期間が始まったばかりのころも楓を見かけていなかったことから、もしかしたらどこかの部活動に入るつもりかもしれないと翔太は考えた。

「ううん、入らないつもり」

 しかし、楓の返答はそんなものだった。どこかの部活に入るかもしれないと思いつつ、その返答はやはり、という思いを翔太の中に落とした。

「仮入部もどこにもいってないの?」

「うん」

 楓は答えながら、弁当を食べるのを止めない。そうか、と呟いて、翔太も自分の弁当に箸を持っていく。

「相田君は?」

 翔太がおかずを二、三口食べたところで、楓が訪ねてきた。ん? と振り向くと楓が弁当を食べる箸を止めてこちらを向いている。その目を見つめられて、なぜか翔太は本当のことを言おうか迷ったが、結局は真実が口から出ていた。

「一応、卓球部にしようかなって」

「…そう」

 いつものように無表情につぶやいたその言葉に、翔太はどこかさびしさのようなものを感じた気がした。あわてて翔太はつけたす。

「あ、だからといって、別に卓球部の友達と弁当食べるからもうここに来ないとか、そういうことは…」

 そう言ってしまってから、翔太は後悔する。これではどこか押しつけがましい上に、まるで自分がいやいやここにきているような印象を相手に与えるのではないかと思ったからだ。それに、楓が翔太にいてほしいことを望んでいるとも限らない。なんだか一人恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちになって、翔太は口をつぐんで顔を伏せた。楓の顔が見れなくなる。

 しばらく、沈黙が続いた。楓のほうを見れないため、楓がいま何をしているのかわからない。翔太の言葉を待ってこちらを見ているかもしれないし、何事もなかったかのように弁当を食べているかもしれない。翔太はそれを確認できないまま、しばらく黙っていた。

「ねえ」

 そう楓が声をかけてきたのは、沈黙が続いて一分ほどたってからだっただろう。翔太が顔を上げると、楓は山を見つめたまま無表情でこう尋ねてきた。

「どうして、毎日ここに来るの?」

 同じ問いかけは、前にもあった気がした。楓は依然山のほうを見つめており、こちらに視線を向けない。翔太は何と答えていいかわからず、すこし考え込む。

 以前は、昼食を食べる友人がいないからだった。だから逃げるようにしてこの屋上に来て、たまたま居合わせた楓と一緒に弁当を食べていた。しかし、今はどうなのだろうか。本当に、弁当を食べる友達がいないと、それだけの理由でここにきているのだろうか。

 いつまでも答えが返ってこないことをいぶかしんだのか、楓が問いかけるようにこちらに視線を向けてくる。風にその髪の毛がなびき、整った顔がこちらに向いたとき、翔太の口は自然と自分の気持ちを紡いでいた。

「楓がいて、一緒に弁当を、食べられるから」

 楓のいつもの無表情が少しだけ驚いたような顔をして、翔太は我に返り、自分の無意識のうちにした発言を振り返る。その台詞を思い返して、またもやあわてて翔太は口を開いた。

「あ、ごめん。下の名前で呼び捨てとか、なんかなれなれしくて。これからは、気をつけるから…」

「ううん」

 翔太の言葉を、しかし楓は首を横に振って止める。その顔は、わかりにくいが、少しだけ、本当に少しだけ、笑っているように見えた。

「そう」

 そう言って、楓はまた山のほうを見て弁当を食べ始めてしまう。その横顔はもういつも通りの無表情で、何を考えているかわからなかったが、それでも拒絶されている様子はなかった。その横顔を見て、少し気まずくなりながらも、翔太も残った昼食に取り掛かる。

 春の陽光が、暖かく屋上を包んでいた。

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