【掌編小説】幸福感

 飲み会の帰り、都心の駅を一人、人ごみに紛れて歩く。

 深夜も近い時間帯。終電へと急ぐ人、次の目的地へ行く人、大人数で騒ぐ人、速足でうつむき加減に歩く人・・・。

 雑踏の中で、僕は独りだった。大勢の人に囲まれているのに、ひどく孤独だった。

 ふと、甘い香りが鼻をくすぐった。石鹸のような、淡い香り。どこか懐かしい、胸の中をくすぐる匂い。

 その正体を思い出して、足を止める。周りに視線をやるが、雑多に歩く人の流れがあるだけで、目的の人は見つからなかった。

 もう忘れたと思っていたのに、心の隙間をつくように、不意によみがえった過去の記憶。

 あの香りは、昔、隣にいた彼女の匂いだった。

 ぼんやりとした記憶を、思わずたどる。忘れたいと思い、心の底に閉じ込めておいた思い出が、顔をのぞかせようとする。しかし、それは鮮明になる前に、濃い霧に隠れたように輪郭を失っていってしまった。あれほど忘れることができないと思っていたものが、今では曖昧模糊として、彼女の笑顔すらぼんやりとしている。胸を刺すような痛みは、すでにぼんやりとしていた。

 代わりに、久しく忘れていた感覚が小さく咲いた。本当に大切な相手にだけ向ける気持ちを、胸に抱いていた時の充足感。これまで過去を思い出すたび、痛みしか感じてこなかったはずなのに、それは突然に思い出され、心をじんわりと満たしていった。無機質な人間関係では決して生まれることがない、満ち足りた感覚だった。

 胸の痛みが完全に消えたわけではない。それでも、痛み以外のものもきちんと残っていた。そのことにとても安心し、まだ忘れていなくてよかったと、頭の中でひとりごちる。

 駅の人ごみの中、僕は再び歩き出す。この先、大切だと思える人にまた出会えるまで、胸の痛みをしばしば思い出すだろう。けれど、胸の中にあるこの充足感も、まだしばらくは残っている気がする。それだけで、僕はまだ歩いて行ける気がした。

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