受験生
午後六時。学校の最寄り駅への帰り道を、体を縮めながら歩く。早く風をよけられる屋内に入りたい一心で、自然と速足になる。
(センター試験まであと二日!)
頭の中で黒板に書かれた文字が躍る。
(あと少し、みんなで頑張ろう!)
帰り道を急ぐ私の前には、同学年の女の子が四、五人、連れ立って歩いていた。
後ろからも、楽し気にしゃべる声が聞こえる。
学校の図書室で、一緒に受験勉強をしてきた帰りなのだろう。同じ境遇にいるはずなのに、しかし私はその輪の中に入ることもなく、黙々と歩き続ける。
みんなとは、誰か?
同じ学年の人間か? 同じクラスの仲間か? 仲のいい友人か?
知っている。みんなと言う時の、その『みんな』の中に、私はいない。
下校中の今、私の前後には、その『みんな』を知る女の子たちがいる。『みんな』を知らない私は、群れからはぐれた魚のようだ。
走り去る車のヘッドライト。後ろへ流れていく自分の吐く白い息。街頭にほのかに照らされた歩道。
私は独り、冬の夜道を駅へと急いだ。
自宅の最寄り駅で降りると、ケータイにメールが入った。駅まで迎えに来る母親が遅れるらしい。共働きで忙しいことも相まって、両親と話す機会はなかなかない。
家でも、私はほとんど一人だった。
仕方なく、駅の待合室へ向かう。学校近くの駅から特急電車で一駅、そこから普通電車に乗り換え二駅。私の自宅の最寄り駅は、絵に描いたような田舎のそれで、三十分に一本しか電車が来なかった。外を通る車も、駅に入ってくる人もほとんどいない。待合室には、昔ながらのだるまストーブがおかれ、それを囲むように、壁際に椅子が並べられていた。
一人待合室の椅子に座り、英単語長を開く。特に目標としている大学も、夢もなく、周りに流されるように、試験勉強を続ける日々。心は疲れ切っているのに、脳だけが勝手に動いているような、そんな感覚。
たった一人で、私は何をしているのだろうか。
待合室はストーブがあるとはいえ、肌寒かった。参考書を開く手がかじかむ。息を吹きかけ、手を温めようとしたところで、ふいに誰かの近づいてくる気配がした。
顔を上げると、駅務員のおじいさんが、湯気を立てたマグカップをもって目の前に立っていた。
「ほら、よかったらこれでも飲んで」
とっさのことにどう反応していいかわからず、私の動きがとまる。目の前に差し出されたマグカップと駅務員さんを見比べていると、おじいさんがもう一度口を開いた。
「こんなところでずっと待ってたら風邪ひいちゃうから。これ飲みな」
「あ、その、ありがとうございます」
笑顔で差し出されたマグカップを、おずおずと受け取る。中にはココアが入っていた。
駅務員さんは私にマグカップを渡すと、一度駅務室に引っ込んでいったが、すぐさま薬缶をもって待合室に戻ってきた。
「明後日、センター試験?」
「あ、はい、そうです」
「そっか。勉強もいいけど、無理しすぎないようにな。体調崩して実力を発揮できなかったら、本末転倒だから」
駅務員さんはそういいながら、薬缶をストーブの上に置く。少しストーブの火を調節してから、私のほうに向きなおった。
「もしお代わりほしかったら、この中に入ってるから自由に飲んでな。それじゃ」
そう言い残すと、あとはさっさと駅務室に引っ込んでいってしまう。私はどう反応していいかわからず、マグカップを両手で持ったまま固まってしまった。
なんとなく、手元のマグカップの中身を見つめる。ココアの甘い香りが、湯気とともに鼻に入り込んでくる。両手から、ココアの熱がじんわりと伝わってきた。
息を吹きかけ、ゆっくりとすする。喉を通ったココアが、体にしみるような気がした。
私は一人、母親が迎えに来るまで、無言でココアを飲み続けた。
たっぷり十五分ほどかけてココアを飲み切ると、ちょうど外からクラクションの音が聞こえた。見ると、母親の車が正面に止まっている。私は立ち上がると、薬缶とマグカップをもって駅務室のほうへ向かう。
駅務員さんは一人、駅務室の中にあるテレビを見ていた。その丸まった背中は、どことなく寂し気だった。
「すみません、これ、ありがとうございました」
駅務室の扉をたたいて呼びかけると、気づいた駅務員さんがすぐに出てきた。
「わざわざ持ってきてくれてありがとう。少しは暖まった?」
「はい、おかげさまで。ごちそうさまでした」
「いいよ。明後日のセンター試験、頑張ってね」
「ありがとうございます。失礼します」
顔をしわだらけにした笑顔の激励は、なぜだか頭の片隅に引っ掛かるように残る。
私は一度頭を下げて、駅の外へと向かった。先ほどのような寒さはさほど感じない。胸のあたりにほんのりとした熱を感じながら、私は母親の車に乗り込んだ。
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明後日はセンター試験ですね。
塾帰りの学生を見て、昔受験したことを思い出しました。
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