一般論に殺される必要はありません。あなたの他とは違う感覚・経験・能力こそがあなたの武器です。
自分にというよりも周りの人に何かがあって、その対応が日曜の昼から月曜の明け方までかかり、noteの更新が月曜の朝になりました。
この問題を対応していて、私は自分が日本人の中のものすごいマイノリティなんだな…ということを改めて知った。
というのは、昨日私が長時間話をして対応したような問題に対応できる日本人はたぶん1割もいないし、それ以前にその話を聞いても日本人の8割くらいの人は全く意味がわからない話で、それ以前にそれについて話をしても別世界の話しすぎて全く会話が会話が成立しないくらい全く噛み合わないことを、私もいろんな所で経験済みだったけど、やっぱりそうだったんだな…と。
それはひどくセンシティヴな内容だから書けないけど、私が昨日聞いたような話を聞いて意味がわかる日本人も、それについて偏見や無知からではなくフラットに意見を言える日本人には私もほとんど会ったことがなかったんです。
(私も生まれたときから日本国籍の日本人ではありますが、日本人だけど感覚がちょっと変わってることには子供の頃から気づいてました)
私がそうだったように何か特殊な環境で特殊な経験や育ち方をして、更に何か普通の人が感じない何かを感じる特殊な感覚を持ってるような人じゃないと、的確な対応どころか無知から悪気なく相手の心を殺してしまいかねない対応を、「善」と思って普通にやるだろうなと。
仕事が出来るとか成功者とか経営者とか有名人とか外国語が出来るとか出来ないとかすごい人が周りにいるとかは全く関係なく…です。
子供の頃から、社会的にすごいとされるレベルの大人の方と話をしてて「あ、この人もダメだわ…わからないのか…」と思ったことが結構あり、大人になってから更に「(これについては)ほんとにわからないのが世の中の普通なんだな」と確信した。
学校に行くようになると、これはほんとに絶望的なんだということが身にしみて理解でき(先生からして知らないしわかってない先生がほとんどだったので仕方ないことですが)、そんなことを口にするような人間が異分子の目で見られて叩かれたり(事実を言えばおかしい人扱いされたり)することを身をもって知った。
逆に20数年くらい前、東京に来たとき最初にできた友達がイギリスとインドのハーフの英国籍のコンガ奏者で、彼が私にもわかるように日本の昭和の中学1-2年の教科書レベルの英語で人種や宗教が社会にもたらすセンシティヴな問題の話をしてくれて、「実は僕も自分が何人なのかよくわからないんだよ」と笑ったとき、初めて偏見なく話が通じる会話のできる人がいた!と思いました。
だから、こういう話をすると、日本語で話せる日本人とよりも言語が通じないはずの外国人の人との方が話が合ったことが昔からよくあり(日本人の人に話すと、ほとんどの人が意味が感覚的に全くわからないし会話にならず、逆に私が変な目で見られたりしていた)返ってきた言葉をきくと大体が「悪気はないんだろうけど、善のつもりなんだろうけど違う。言うんじゃなかったな…」という結果になることが今でも多い。
教育というのが集団洗脳なのは、この国は「はだしのゲン」の太平洋戦争の時代から変わってないし、更に言うと、歴史の時間に寝てた私でもわかるけど、それよりも昔からずっと、江戸時代なら士農工商とか一部の権力者が一般の国民が団結して歯向かってこれない社会の仕組みを作って重税を課して、重要なことは決して教えずにコントロールするような…
それに歯向かわずに国や企業のトップのいうことを素直にきいて黙々と働いて文句を言わずに疑問も持たずにお金を納める人間を大量生産する教育を施す場所が、まさに学校であり教育現場なんだなと思いましたが…
昨日の件の対応をしていて、ああ…やっぱりな。と思った。
上記の教育が日本の国民や社会にどんな効果をもたらしているか、それが外国の視点からみてもどういう意識・認識的に偏狭な世界を作り出し、センシティヴな沢山の問題を産み出しているのか、ということを目の当たりにしながら、普段ボケッとした私にあり得ないほど、昨日は何時間も話し続けました。
わざわざカタカナやわかりにくい言葉で書いてるのも訳があって、センシティヴ過ぎたりプライバシーの問題で詳しくは書けないからなんですが、昨日の私自身が言った言葉のなかで、自分でもそうなのか!と思ったことを最後に書きます。
学校や企業が教える「一般論」は、そこの社会において順応性があって上からはコントロールしやすい人達の集団を作るためのセオリーなので、その社会で生きる以上一応知っておいた方がいいのは本当だけど、自分の意思や考えをもってやりたいことがある人は、それを全てだと思う必要はないし、むしろ他とは違う自分の特殊な感覚・能力・経験を、他の人達が否定しても大切にして磨いていった方がいいです。
おかしいと思う感覚は、どんなに否定されても大体おかしいと思った直感が正しいので大事にしましょう。
私も昔、大人や友達や上司や身内に言われた一般論を真に受けてたら、とっくに一般論に殺されてたでしょうし、今の仕事もしていません。
それが未来、あなただけが持つ武器になり、さらに未来には、かつてのあなたと同じようなことで苦しむ人達を助け、その人達もやがて、あなたのように自分で考えて行動できる人になっていくでしょうから。
これはセンシティヴでもなんでもありませんが私が昔よく上司や目上の親戚や大人に言われたり、時にひどい侮辱を受けた言葉である例の
「音楽(英語・外国語)なんてやってなんになるの? そんなの仕事にならないし、趣味でしょ?(嘲笑)」
を真に受けておとなしくいうこと聞いて泣き寝入りなんかしてたら、私はコロナで当時のベビーシッターの副業が出来なくなったときに家賃も支払いも出来なくなり、とっくの昔にのたれ死んでいたと今でも思います。
その人達がなにがしたいのか子供の頃からほんとに謎でしたが、世の中には「みんな同じ!」「みんな大変!」(←に対する私の心の声…いや、一人一人事情も状況も持ってる特性もルーツもいままでも現在も違うでしょ。だからベストな対応も違うでしょ)
を気持ち悪い新興宗教かなにかの呪文のように唱え、「人にない能力・感覚・個性」を頭から嘲笑って叩き潰し、なかには存在すらムキになって全否定し、それをもった子供を傷つけて才能を殺そうとする不思議な大人達や同級生や先輩が、なぜか沢山いました。 私は大体そういう人には嫌われてましたが。
私が「出る杭は打たれる横並び社会!」が子供の頃からだいっきらいな理由がそれで、それをやられそうな子供達をサポートして彼らに自分の才能や長所のすごさに気づいてもらって生きていく力を育てるために、私は保育士やってます。
もちろん、バイリンガル保育園への転職から3年がたち、私は今の自分の能力には不足を感じているので、もっともっと努力して伸ばさないとダメだと思っていますが。
一般論も一応は世の中の大半の人がどんな見方や考え方をする社会なのかという目安として知っておきながら、自分自身の感覚は大切にしましょう。
誰に何を言われても、それを磨き、成長させる行動はやめずに続けましょう。
よしんば今あなたが苦しい状況でもがいてがんばってるとしても、その姿をちゃんと見ている心ある人や、子供達が必ずいます。
そこには届いてるので、水面下では考え、行動する人達がじわじわ出てきている。
そうしたらいつか、あなたの感覚が正しくて、一般論をひっくり返す日が来ます。