孤独感、依存と虚栄と信念と
前の日曜日(12月13日)、珍しく話したいような雰囲気があったから高校の時の友人に会いに倉敷まで帰った。
倉敷の美観地区を堪能するわけでもなく、寒い寒いと思いながら大原美術館の前をうろうろして待っていると5分くらい遅れて彼女はやってきた。
束の間の休暇を友人と語らうのも悪くない。会うのは2年10か月ぶりくらいのようで、10年以上の付き合いとはいっても約3年ごとに会っていたらなかなか関係性も親しいのかよくわからんなという感じだ。
直截的な内容について記すわけにはいかないが、この歳になると同年代の幸せ満開(に見える)報告か仕事やプライベートでメンタルをやられている報告を聞くかのどちらかになることが多い。学生時代のような、どうでもいい日常の交換というのは無駄が多くて楽しかったなあ。良いことばかりではなかったけれど、正直そんな前途洋々な未来に嫉妬する。
今回の主なテーマは孤独感だ。
孤独感に苛まれて生きることに辛さや居心地の悪さを感じることは割とたくさんある。誰からも嫌われているとか好かれているなんてことはないけれど、人はみな孤独で、自分のことなど誰も真に理解してはくれないのだと思うのは虚しい。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、人と人とが直接語り合ったり接触したりする機会が減ったことが、精神的な孤独感を助長した面はあっただろう。自分一人で何事かに努力したり趣味を堪能したりする時間は必要だけれど、それを真に共有できる相手や仲間がいない(いても共有できない)というのは相当なストレスなのだということに気が付いた。
人とのコミュニケーションは不思議なもので、ネット空間での情報のやり取りだけでは埋め合わせできないような精神的充足感が得られることがある。もちろん、場合によっては強烈な不満を抱いたり怒りに震えたりこともあるが、そうしたものが対面の話し合いによる情によって解消される部分は往々にしてある。
それが根本的な解決かどうかは措いておいて、文字だけのやり取りにとどまらず、声が聞こえたり、顔が見れたりすること以上に、そこに実際に存在することに実感を持てるということが結構重要なんだなと感じた。むしろこれは、他者の存在を認識している自分自身が存在していることを実感できるからこそ精神的に満たされるのではと思わなくもない。
画面上に映る他者が、自分にとってどれほど大切な人であったとしても、そこにいるはずの人間は本当に生きている人間なのか。今のご時世、AIでいくらでも精緻な映像も声も作り出すことができるようになり、目に見えるものが正しいと信じることも危うくなりつつある。離れていても心は一緒なんてのは絵空事で、離れているとどんどん心は離れていくし、ストイックに思い続けたところで、触れることのできない感触にセンチメンタルな気分になるだけだ。
誰もが自己肯定感に悩み、満たそうとしても満たされない想いに四苦八苦している生きづらい世の中に、絶対的な愛の救世主が現れることを願ってやまない。しかし、いよいよそんな存在はいない※。いや、その場しのぎの幸福を提供してくれる素晴らしいアイドルならいるし、仕事で自らの実績を十分に褒め称えてくれるような上司や偉い人ならいるかもしれないし、苦しみを打ち明けたら親身になって聞いてくれる友人や恋人もいるにはいるだろう。そういう人たちにどれだけ日々感謝できているか、報いに対して胸を張って恩返しができる自信を持っているか。そういうことはもちろん大事だ。
しかし、絶対的な愛を与えてくれる存在というのはいないし、絶対的な真実を語る人間もいない。そんな人はもはや人ではない。不完全性をどうやって補い合えるかというのが大事だ。それこそ人の本質だろう。
人は誰しも孤独というのはある意味真実なのかもしれないが、自分の抱いている孤独感を他人も抱いているだろうと思い込むことは、結局集団としての孤独感を助長するだけではないのかと思う。友人と話していて、似たような人間だと割と思うが、鬱屈した気分に陥りがちだ。だとしたら、孤独感は前提としても、どうしたらよいかを考えた方が生産的だよなと感じる。具体的には、なぜ孤独なのかを考えた方がいいなと思う。自分に自信がないからなのか、仕事で一人苦しい思いをしているからなのか、友達がいないからなのか、恋人と別れたからなのか、いろいろな事情があると思うが、そんなことを考えてみて、自分の信念を築き上げていく。他人に与えられることでも、自ら勝手に与えることでもなく、自らの信念に基づく言動が他者を巻き込んで前に進んでいくような感じ。そういう依存でも虚栄でもない気概に満ちた精神で生きていたいなあと思うのだ。
終わり
※これが中世のキリスト教世界においては神だったし、近代以降の合理性の時代では理性信仰だったのかもしれない。神はいつでも情けない自分を慈しんでいらっしゃるという信仰がどれだけ安心感をもたらしたのだろうか。それこそ、苦しい生活を強いられた貧乏人が神に頼ったところで本当に神は救いの手を差し伸べてくれたのだろうか。何も生活が改善されなかったとして、それでも信じるものがあるということは大事なことなのかもしれない。そして、問題は信じるものがあるということだけでなく、信じることができるからこそ自分が何を成し遂げられるかだ。理性によって、人は便利な文明の利器を創り上げてきた。それによって人々の生活水準は大きく改善したし、過去に比べれば生産性が大きく上がり所得水準も高まった。しかし、人々の幸福は増進したのか。物質文明の進展で何不自由なく生活できる人が増えたにもかかわらず、巷には情報が溢れ、フェイクニュースと真の事実が混同され、何が本当で何が嘘なのかの明確な基準も判然としなくなっている。自らが信奉するものと他者のそれが衝突したときのどうしようもない水掛け論に当事者たちは疲弊するだけでなく、その周りは衝突を煽る人もいれば辟易としている人たちもいる。信じるものが自らの理想から離れたときにこれ見よがしに強烈な批判を浴びせる狂信的な人間もいる。世の中に絶対的な愛の救世主などいない。すべてが相対的で誰かの正義が誰かの悪になり得る。そんな時代に現れた権威主義的なポピュリストになど頼ったところで所詮一時的な満足感しか得られるものではないが、それも時代の要請ということなのだろうか(スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム、進歩』(2019年)参照。)。