第12話 高陞号の撃沈はギャンブルだった(授業第6回)
(表紙の画像はAIによって作成された)
東郷平八郎は神として崇められる対象です。日本海海戦の功績は圧倒的でした。日本は大国になりました。
すこし前の日清戦争でも、東郷平八郎は正しい判断をしたとされます。本当にそう言ってよいのでしょうか?
戦争はギャンブルです。勝てば官軍、負ければ賊軍。勝敗は確率の掛け算で、サイコロを振るのは神です。日本は常勝の神国じゃなかった、と思い知ったときには遅すぎました。
教科書での関連する記述
日本史教科書に「高陞号事件」の文字はない。図に「豊島沖海戦」の文字があるだけだ。
日本史教科書は、都合の悪いことを口ごもっていないか? 「交戦状態に入った」とは何だ? 宣戦布告はどうしたのだ? 宣戦布告なき開戦は日本のお家芸と世界が認識してしまったことを、しっかり国民に教えるべきでないか。
日清戦争の開戦をめぐって、私はそれを国際法違反とか言うつもりはない。世界法廷が決める情勢でもなかったから、権威的に当否を確定することは不可能だったからだ。結局、勝てば官軍、だったから、戦争はギャンブルだ、と私は言う。
正式な宣戦布告は1894年8月1日だ。宣戦布告なき開戦は違法、という意見は当時からあったが、国際法が未発達だった時代なので、「国際世論」や「実力」によって結果は左右された。高陞号がイギリス船籍だったから助かったようなもので、宣戦布告にこだわる国ならば、こじれに、こじれたろう。
高陞号事件発生時にすでに日清は戦争状態にあった、とイギリスはしてくれた。事件と同じ7月25日に近くの黄海上で日清の軍艦が砲火を交えた。これを豊島沖海戦という。先に撃ったのがいずれだったか?、の真相ははっきりしないらしい。この交戦をイギリスは事実上の開戦と認めてくれたので、日本側が臨検して捕獲した理由が成立した。
このように考えると、高陞号事件はラッキーな展開をたどったといえる。平時に外国船籍の輸送船を撃沈し、千人の命を奪ったなら、たとえ兵士を載せていようとも、明らかに過剰な行為だからだ。
スマートな東郷平八郎
東郷平八郎はイギリスの海員学校に留学したので、海のルールに通じていたとされる。巡洋艦「浪速」の艦長だった彼は高陞号を捕獲しようとしたが、乗っていた千人あまりの清の部隊がイギリス人船長に従わなかった。船長らは海に飛び込んで逃げ、日本側に助けられた。その一方で、清兵であふれて「敵船」となった高陞号に魚雷を放ち、側砲で沈め、清の将兵のみならず、多くの西洋人も死亡した。板子一枚下は地獄だ。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0003/0001/0027/0601/0168/index.djvu
(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)
そのいきさつは、『日本外交文書』第27巻第2号の番号727附属書「高陞号事件報告」に書かれたとおりのようだ。
日本側は在京の外交団に詳しい情報を提供し、他国を説得することに成功した。ロンドンでは、青木周蔵公使が説明に努めた。
国際法学者の援護
ただし、日本側のストーリー上では撃沈は正当だった、というだけで、他者の目から見てそうだったとはかぎらない。事件時、戦争状態にあったか?、はもちろん重要な論点だったが、高陞号が中立国イギリスの国旗を掲げていたのに攻撃されたことも不利だった。国旗への侮辱――かつてアロー号の旗が降ろされたことを、イギリスは清との戦争の口実とした――はあまりに不吉な事実だった。世論が高陞号の撃沈に激高すれば、イギリスが清側につくことはありえた。
世論の激高を静めたのは、国際法の権威たちの意見だった。ケンブリッジ大学教授ジョン・ウェストレイクとオックスフォード大学教授トマス・E・ホランドが8月上旬に、撃沈は正当だったと表明してくれた。9年後に国際法学者の高橋作衛が著した『高陞号之撃沈』が両教授の説を紹介している。ちなみに、高橋らの推薦により、勲章が両教授に授与されていた。
とはいえ、両教授は覇権国イギリスの海軍力を最大限、活かせる国際法を主張したにすぎなかったろう。宣戦布告の有無にとらわれず武力行使できるほうが、海軍強国には都合がよいからだ。
それはそうと、覇権国が敵側につかなかったことによって、日本は清との戦闘に専念できた。戦争になったら、ひたすら覇権国に迎合せよ! こざかしいこの知恵は今でも力を失っていない。
1903年まで長引いた清への請求
こうした世論の変化があってか、日本に対するイギリスの非難は収まった。しかし、船の所有者で船員の雇い主だったインドシナ汽船航海会社は賠償請求への助力をイギリス政府に求めた。年が改まり1895年になって、日本でなく、清への賠償請求に助力する、とイギリス政府は決定した。弱り目に祟り目、泣きっ面にハチ、というが、千人殺されたうえ、賠償金まで要求された北京政府はさぞかし不条理に感じたろう。年が改まった、ということは、東郷は国際法に詳しいから、ですんだわけでなかった、ということでもある。
私はこの国際紛争を調べたことがある。若気だけで書いた上の紀要論文だ。もとにした文書は筆記体が読みにくいが、読者ご自身で調べることもできるだろう。このファイルはTNAサイトに登録すれば無料でダウンロードできる。
清にとっても、汽船会社にとっても、解決までは苦しい道のりだった。義和団事件以降、清は抵抗をあきらめたようだ。
事件から8年半が経った1903年2月26日、33,411ボンドが上海のイギリス領事に送金され、インドシナ汽船は3月7日に受けとった(FO 17/1666, The National Archives of the UK (TNA), pp. 216, 219, 226)。
ウェストレイクとホランドがタイミングよく日本の肩を持たなかったら、イギリスは日本を見放し、日清戦争は苦しい戦いになったろう。日英同盟も日露戦争もなかったかもしれない。日本という国家を船に喩えるなら、その板子一枚下は地獄だった。
事件から半世紀後、実力のない国が無分別なことをすると末路は哀れだと日本は思い知ることになる。経済も、世論も、支配する覇権国とたもとを分かってしまっては、単独で戦争をしても勝てる見通しは立たないものだ。
まとめ
高陞号事件での成功は長期的には失敗の起原だった。神業の連発で得た勝利ほど危ういものはない。本物の神がサイコロを振ったら悪い目も出ることを忘れさせるからだ。悪材料はすべて無視し、好材料がすべてうまくいく机上の空論で、日本は日中戦争・太平洋戦争に突入した。作戦の一部が失敗しても取り戻せる代替案のことをコンティンジェンシーブランという。10,000パーセント万全、と言えるくらいの余裕がなければ戦争はしてはならない。一つの観点で100パーセントであっても、他の観点で50パーセントということがあるからだ。
課題
『日本外交文書』第27巻第2号の番号727附属書「高陞号事件報告」によると、浪速が高陞号に「ヒーヴ、ツー、オーア、テーキ、ゼ、コンセクヱンセス」と答えてから、高陞号が砲撃を受けるまでの4時間のあいだ、浪速は高陞号をどのような状態でどのようにさせようとし、高陞号はそれにどのように反応したか? 報告に記載されている内容のとおりに答えなさい。
高橋作衛が著した『高陞号之撃沈』(70-71ページ)において、ウェストレイク(ウェストレーキ)教授は開戦の宣言がないことは戦争状態の有無にいかなる影響がある、またはない、と述べたと紹介されているか? 彼の説を整理して解説しなさい。
「第12話 高陞号の撃沈はギャンブルだった(授業第6回)」を読んで、戦争をギャンブルにしないために、いかなる心がけが必要か? あなたの考えを論理的に述べなさい。