第18話 日系カナダ人はWWIIにほとんど従軍できなかった(授業第12回)
(表紙の画像はAIによって作成された)
日系人にアメリカ合衆国政府は謝罪と賠償をした、といいます。実はカナダも自国日系人に謝罪と賠償をしました。
日本人ではこうした報道は他人事のように扱われます。たしかに、日系人はすでに他国の市民だったわけですから、日本政府にとっては保護義務の対象外でした。他方、特定の先祖を持つ市民だけを差別して強制移住させたカナダ政府は非難されるべきです。
第二次世界大戦について、日本も謝罪と賠償をしました。しかし、自国民ではなくアジア太平洋の人々に対してです。生命・財産を奪ってしまったのですから当然です。
では、かつての同胞である日系アメリカ人・カナダ人に汚名を着せたことを謝らなくてよいのでしょうか?
法的責任という点では、謝る理由はないことになります。海軍の手先としてスパイに仕立てようとした、といった疑惑はありましたが、両国についてはほとんどは濡れ衣で、目立った事件は起きませんでした。
となると、道義的責任が中心になります。日本への悪い評判が、血縁や同じ社会的特性を有する日系人への悪い評判を招いたことの責任です。家族や会社への悪い評判が、それらの関係者にまで悪評をもたらすのと同じ筋道です。
グローバリゼーションによって、国家と国家の権利義務だけでなく、個人と個人とのコミュニケーションにおける道徳観を調節することが必要になっています。日系人への偏見や汚名を招いたことに、日本側は反省をし、道義的責任を負うべきです。海外の謝罪報道を他人事のように受け流すことは許されません。
教科書での関連する記述
残念ながら見当たらない。国籍から離脱した者は「日本」という集合自我から外れるのが扱わない理由だろう。実際、スポーツでも、外国代表になった日本人や日系人はそう扱われる。
カナダの排日
明治の末から大正をはさみ昭和のはじめまで、日本人移民の排斥に関する記事が『日本外交文書』にたくさん現れる。その多くはカリフォルニア州とブリティッシュコロンビア州におけるものだった。もちろん、前者はアメリカ合衆国、後者はカナダに所在する。
1907年にバンクーバーで日本人の商店55戸のガラスが割られる事件が起きた(『日本外交文書』第40巻第3冊「44 加奈陀ニ於テ本邦移民渡航制限ノ件」の番号1747「晩香坡ニ於ケル日韓人排斥同盟会ノ示威運動及被害ノ件」(179ページ)。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0005/0001/0040/0784/0486/index.djvu
生活や文化への偏見や仕事を奪われた労働者の反感が背景にあったのだろう。それらとともに、日露戦争で見せた帝国海軍の精強さが、領土を奪われるのでないか、という恐怖感を与えるようになっていた。
この事件の処理のためにカナダから使節としてロドルフォ・ルミューが派遣された。迫害事件が理由だったものの、日本政府にとってはうれしくない使節だった。上の理由は表向きで、日本と移民制限を設ける交渉にとりかかるのが真の目的だったからだ。
林・ルミュー協定またはルミュー協約が結ばれた。書簡の形式をとった合意で、その本文が『日本外交文書』第40巻第3冊「44 加奈陀ニ於テ本邦移民渡航制限ノ件」の番号1799附属書7「協定済案文」(239ページ)に載っている。
書簡の最後に、移民制限の数値約束が言い忘れかけたように記されている。有名な歴史文書、例えば軍縮における1818年のラッシュ・バゴット協定や日米半導体協定サイドレターも書簡形式だ。このサイドレターは数値目標が義務かどうかで争いの種となった。書簡形式のこうした国際合意は禍根を残すことが少なくない。堅苦しい条文でないだけに、定義と解釈をあいまいにしたままで気軽に約束してしまうのだ。
林・ルミュー協定もしばしば解釈をめぐる争いを招くことになる。これは日系人移民への反感が消えなかった裏返しでもあった。
強制移住
日本人はやっぱり悪い奴らだった、という濡れ衣を真珠湾攻撃は証明してしまうことになった。悪いのは太平洋の西向かいの人々であって、一世でも二世でもなかった。
強制移住の布告を、Roy MikiとCassandra Kobayashiの_Justice in Our Time: The Japanese Canadian Redress Settlement_ (Vancouver: Talonbooks, 1991)の記述に従って見ていく。
この官報の発行日は1942年2月27日だが、布告の日付は26日だ。日本人種のすべての者が太平洋岸から100マイルと設定された保護地域から立ち去ることが命じられた。正確には、日本人種のすべての者とは両親またはいずれかの親が日本人の者だ。
Roy MikiとCassandra Kobayashiがカナダとアメリカ合衆国の日系人の扱いを比較した表が興味深いので訳して引用する。
カナダの日系人が最後になって従軍できたのは、東南アジアの戦場で必要だ、とインド軍とオーストラリア軍から要請があったからだ。この実態については武田珂代子氏の『太平洋戦争 日本語諜報戦』 (ちくま新書、2018年)に詳しい。
1949年まで太平洋岸に戻れなかったということは、世界人権宣言が国連総会で採択されても差別は続いた、ということだ。
他方、アメリカ合衆国の日系市民は政府への忠誠が堅く、勇猛に戦い、日本語力によって勝利に大きく貢献した。
相手を間違えている
第二次世界大戦後、日本は復興し、「経済大国」といわれるまでになった。1976年11月、ピエール・E・トルドー首相が来日し、三木武夫総理大臣と会談した。
戦時中の日系カナダ人を拘留し、強制移住させたことに対する謝罪を帰国前日の席で三木に伝えた。
二つの意味で間違えていた。まず、謝る相手は三木でなく日系人たちであるべきだった。11月6日の_Vancouver Sun_には"The Japanese-Canadians: 'Will our government never learn?'"という見出しのもとに、同紙に寄せられた批判の投書が掲載された(P. 5, available at https://vancouversun.newspapers.com/image/492702211/, downloaded on October 13, 2024)。
もう一つ間違えていたのは、三木こそ、日系人に謝るべきだった。日系人もカナダ人だから、その謝罪は戦争への反省を含むはずだ。
人々の日常的な道徳観なら、三木も謝るべきという感覚はおかしなものでないと思う。しかし、国際社会の常識では三木は日系人に謝る法的責任はないのだ。カナダでは、政府に謝罪を求める日系人のキャンペーンが始まろうとしていた。法的には、日本政府は傍観を決めこむことができた。世界秩序のあり方を根源から問い直すことが必要だ、と私は思う。
まとめ
正式なカナダ政府からの謝罪と補償は1988年9月に行われた。カナダのテレビ局CBCのウェブサイトへのリンクを貼る。
https://www.cbc.ca/archives/government-apologizes-to-japanese-canadians-in-1988-1.4680546
これを調べた私の感想は、まだ知らないことが多すぎる、ということだ。あと10年勉強しても、20年勉強しても、そうだろう、と思う。
課題
『日本外交文書』第40巻第3冊「44 加奈陀ニ於テ本邦移民渡航制限ノ件」の番号1746「晩香坡ニ於ケル日韓人排斥同盟会ノ示威運動開始ノ件」(178ページ)には、いつ、だれが、どこで、何を破壊したかが書かれている。いつ、誰が、どこで、何を破壊したかを詳しく解説しなさい。
次のウェブサイトを参考にしてニューデンバー収容施設の概要を日本語で詳しく描写しなさい。 https://www2.gov.bc.ca/assets/gov/driving-and-transportation/driving/japanese-internment-signs/new_denver_internment_camp.pdf
有名な日系カナダ人を1名挙げ、その人物の姓名、生まれた年、そして有名になった理由をできるだけ具体的に書きなさい。