グローバル社会の将来
週末の家族客で賑わうショッピングモールは欧米はもちろん、アラビアでも、中国でも、アフリカでも、世界のどこでも見られる光景である。何でも揃い、何でも買え、クレジットカードが利用でき、美的センスのある春の気候の遊歩道をぶらぶら歩きすることは楽しい。「快適さと美と効率のこの結びつき」を「幸福の物質的諸条件」と述べたのは、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールであった。ここでの幸福とは緊張の解消である。労働や季節や性といった複雑なものはすべて均質化されている。彼がショッピングモールを例に、消費の加速度的な増加を描写したのは1970年、つまり半世紀前、のことであった[1]。
ポストモダンの消費はモダンの消費とはまったく違う、とボードリヤールは予言した。筆者が日本でそれを体験したのは、1980年ごろ、池袋の西武百貨店においてであった。マズロー的に言い換えれば、モダンの消費は生理・安全・承認の欲求が主であったが、ポストモダンでは自己実現や審美の欲求が中心となる、といえよう。
また、ボードリヤールは、財は使用価値に基づいて買われるのでなく、差異表示記号として消費される、とも見抜いた。ショッピングモールの事例に、この差異表示記号としての消費という命題を当てはめると、どれだけリラックスできるかという使用価値は問題ではなく、ショッピングモールを歩く自分を確認することに意味がある。では、その自分、あるいは社会的に差異化された存在、は主体的に選んで、受け入れたアイデンティティであるのか? ボードリヤールは次のように言う。
あたかも消費社会全体が人間を縛り付けているかのような書きぶりである。均質化された消費社会の世界市民である、という自己確認であれば、実害は小さいかもしれない。しかし、下層階級の奴隷根性やフーリガニズムを美徳とするコードが存在し、それを強いる差異の秩序などというものがあるとすれば、断固、廃止すべきである。
マルクスとエンゲルスであれば、いわゆる虚偽意識に関して違うことを言うであろう。偽のコードを信じ込ませる詐欺に引っかかるとすれば、それは無力な個人の現実があるからである。『ドイツ・イデオロギー』から引用する。
筆者はマルクスとエンゲルスほど自らが正しいと信じていないので、革命でなく、批判をする。
今回のテーマは、グローバリゼーションは人間の抑圧なのか、人間の解放なのか、具体例を挙げながら論じなさい、である。人々がこれほど多量の消費を享受しているのはグローバリゼーションのおかげと言って過言でない。その点はこれでよいのかもしれない。しかし、どこかで変調が生じ、崩壊しないともかぎらない。なぜなら、この秩序を誰が作っているのか?、ということさえよく分からないからである。市場の流行を操る企業と、GDPの数字を司る国家官僚、そして愚民政策を実践する政治家の周辺が怪しいが、本当にそうであろうか?
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