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体が主役で、心は脇役


れんこんnote 005

体が先に決め、心は後から考える

 目の前のリンゴを取ろうと手を動かすとき、心(頭脳)が指令を出す直前に手は動き出しているそうです。手が動き始めてから、手の動きに合わせて、心が指令を出しているのです。
 最近の科学で証明された事実です。

 この話を聞いたとき、「やっぱり」と、私は納得しました。
 宇宙や生命体の歴史を考えると、意識や心が生まれたのは、体より後のことです。ですから、体が心より前に動き出すことが、私には当然に思えたのです。
 心が動かすことのできる体は、ほんの一部です。手の動きだって、熱いものを触ったときには、心を介さずに動いてしまいます。体の各部分が周りと良い関係を保ちながらそれぞれに動いて、全体として調和が取れているのが生命体だと思います。
 体が先に決め、心は後から体の動きに合わせて考えていると、私は思っています。

体が先に決めていると感じる理由

 この文章を私は意識して書いています。
 でも、先の先まで書く文章を全部考えてから書いているのではありません。書いているうちに、どんどん文章が生まれてくるのです。考えるのが先というより、指が動くのが先という感覚です。

 おしゃべりのときもそうです。
 おしゃべりしていると、相手の反応に反応したり、勝手にも思いついたりして、おしゃべりは想定していない方向へ進んでいきます。意識や心が制御しているとは思えません。

 夜、左側を下にして横になったときと、右側を下にして横になったときでは、思い浮かぶことが異なります。昔から不思議に思っていました。
 心にとって左が下でも右が下でも同じようですが、体にとっては大違いです。体が先と考えると、浮かぶ思いが違ってくるのは当然だと、腑に落ちました。

 心が「死にたい」と願っても、体はひたすら生きようとし続けます。
 体が主役で、心は脇役なのに、心が主役になって苦しんでいます。


体が先に決めているとしたら

 体が先に決めているとしたら、私たちが常識と思っていたことがいろいろと変わっていくでしょう。

 例えば、養老孟司さんがおっしゃっていた「個性は体にあるのであって、心に個性はない」こそが常識になるでしょう。
 同じように「主体性は体にあるのであって、心に主体性はない」が常識になるはずです。

 そうすると、主体性を育てる教育の在り方も、変わっていかざるを得ないのではないでしょうか。

体が主役で、心が脇役

 近代人は、理性や精神、心を重要視して、文明を築いてきました。
 しかし、現在、理性や精神、心を重視していくことに限界がきているように、私は感じています。

 「体が主役で、心が脇役」と考えてみるとよいのではないでしょうか。
 「体が主役」と考えて、謙虚に体の声に耳を傾けたら、限界の向こう側のささやきが聞こえてくるような気がしています。

 「体が主役で、心が脇役」のことを考えていると、いろいろな疑問が湧いてきます。好奇心をとても刺激されますので、ワクワクしてついのめり込みそうになります。
 でも、興奮すると、夜、眠れなくなりますので、「体が先に決めている」ことについては、たまにしか考えないことにしています。

 「体が先に決めている」ことについて考えない日でも、自分の体の声に耳を傾けようと努めています。

追伸

 「体が主役で、心が脇役」に好奇心を刺激された方には、前野隆司著「脳はなぜ『心』を作ったのか 『私』の謎を解く受動意識仮説 」(ちくま文庫)をお勧めします。

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