目的や目標を持たなくたっていい
れんこんnote 020
目的や目標を重視する社会
近年、目的や目標を持つことを重視する傾向が強まっていますが、息苦しさを感じるのは私だけでしょうか。
目的や目標を持つことがいいことだとされ、PDCAマネジメントサイクルが流行しました。公的機関では、いまだにPDCAサイクルが流行し続けています。
「やりたいことが見つからない」私は、目的や目標を持つことがあまりありませんでした。しかし、仕事をしていると、PDCAサイクルを強く求められますので、嫌々、仕方なく、でも、上手につき合うことにしていました。
大学の学長のときには、認証評価に耐えうるガバナンスの構築に取り組みました。
学校教育法により、定期的に文部科学大臣の認証を受けた評価機関(認証評価機関)による第三者評価(認証評価)を受けることになっています。
国は、事前規制を弾力化し、事後確認を認証評価機関に任せることで、費用や労力を減らすことにしたのです。
認証評価の目的は、大学等が社会的評価を受けること、また、評価結果を踏まえて大学等が自ら改善を図ることとされています。しかし、真の目的は国の費用や労力の削減にあると、私は勘ぐっています。
とにかく、PDCAサイクルで大学自ら改善を図れと法律で決められてしまいました。
少子化の中で、大学は淘汰されないよう必死で努力しています。改善を図らなければ、淘汰されてしまいますから、必死に頑張っています。その中での認証評価のための書類づくりは、かなりの過重負担ですし、大いなる無駄だと思っています。
しかし、法治国家ですので、法律は守らなければなりません。
認証評価機関で働いている方々もやらされでほぼボランティアですが、責任感と義務感で奮闘されています。不合格の評価を下すことは彼らにとって大きな負担ですから、彼らに迷惑をかけないよう、認証評価に耐えうる運営体制や報告書を整えることを心がけました。
ところで、PDCAサイクルとは、なんでしょうか。
Plan(計画)、Do(実行)、Check(測定・評価)、Action(対策・改善)の仮説・検証型プロセスを循環させ、マネジメントの品質を高めようとするものです。
これって、ほんとうに人を幸せにするのでしょうか?
この疑問を解消する本に出合いました。
PDCAに代わるOODA
斉藤賢爾著「信用の新世紀 ブロックチェーン後の未来」という本です。
最近、PDCAに代わって「OODA(ウーダ)」ということが言われ始めている。観察(Observe)、適応(Orient)、決定(Decide)、行動(Act)を高速で反復するというものである。これは「大量生産」の考え方と異なり、それぞれが少量で多様なものを作る世界にもマッチする。そのような生産方式は、デジタルメディアにより支えられることになる。(斉藤賢爾著「信用の新世紀」p119)
斉藤賢爾さんは、近代社会は「農耕社会」の考え方が主流であり、「貨幣経済」の社会であるが、それが、分け合い、人を助けることが中心となっていく社会に移行しつつあると言います。「贈与経済」であり、同時に「狩猟採集社会」の考え方にかなり近くなっていると言うのです。
そういえば、OODAは狩猟の方法に近いのではないか。例えば、弓を射るという動作を考えてみてほしい。獲物を観察し、その状況に適応して、判断を下し、弓を射る。PDCAが、作つけを計画し、種を蒔き、育て、その結果を見て次期は改善する、という農耕のプロセスとよく似ているのに対し、OODAは狩猟の方法に近いのである。(斉藤賢爾著「信用の新世紀」p123)
そうか。私は農耕社会の考え方にどっぷりと染まりつつ、それに違和感を覚えているのか。
そう思ったら、納得してしまいました。
でも、簡単に納得するときって、結構危険なのです。しばらく寝かしてから、また考えてみることにします。
目的や目標を持たなくてもいい社会がくるの?
教育基本法第1条には教育の目的が、第2条には教育の目標が明記されています。
目的と目標を明確にして、それを達成しようとする考え方は、「農耕社会」の考え方です。
つまり、日本社会は法的には「農耕社会」の継続を前提としています。
しかし、時代は「狩猟採集社会」に回帰し始めているのかもしれません。
そうであるとしたら、私たちはどうすればよいのでしょうか。
未来を予想しても、外れることが多いと思っています。
ただ、自分の体や心が感じる違和感は大事にしていきたいと思っています。
目的や目標を持たなくたっていいじゃないか、という違和感を大事にしていきたいと思います。
目的や目標を持ってもいい
目的や目標を持ち、実現しようとすることは、とても素晴らしいことです。
そうして頑張っている人を見ると、応援したくなります。
ですから、目的や目標を持つことができた人はすごいと思いますし、尊敬しています。
でも、目的や目標を持つことを強要されたり、推奨されたくないのです。
目的や目標を持ったっていいけれど、持たなくたっていいと思っているだけです。
ちなみに、教育基本法にある「教育の目的」は「人格の完成」です。
この目的は、誰も永遠に達成することができない目的です。しかも、達成度を測ることができないので、他人と比べることも困難です。
こういう目的を教育基本法に入れようと考えた人って、すごい知恵者だと思いませんか。
国民に「人格の完成」という「教育の目的」を意識させつつも、優劣は意識させず、教育を競争に駆り立てない深慮があったように感じます。
目的や目標は持ってもいい、持たなくたっていい、と思うくらいのいい加減さが大事なのじゃないかって、私は勝手に考えています。
その方が息苦しくなくていいし、多様性を受け入れやすくなる気がしています。
追伸
「農耕社会」が「狩猟採集社会」に回帰し始めているとしたら、人類史上の大転換期です。
「農耕社会」は新石器時代における新石器革命(農耕革命)によって始まったとされていますので、およそ1万2000年間も継続してきました。
それが転換し始めたとしたら、とんでもないことです。
転換するのにどれくらいの期間を要するのか、見当がつきません。数百年、数千年かかるのか、数十年くらいの短期間で転換するのか、それすらも想像できません。
しかし、もし、私たちが人類史上の大転換期に遭遇しているとしたら、こんな幸運なことはありません。
大いに楽しんでしまいましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?