自主性と主体性はどう違うか
れんこんnote 010
昔と今
昔は「自主性」が求められていましたが、今は「主体性」が求められています。
なぜ、「自主性」から「主体性」へ変化してきたのでしょうか。
自主性と主体性の違い……風呂掃除で考える
自主性と主体性はどう違うのでしょうか。
お風呂掃除を例に、自主性と主体性の違いを考えてみましょう。
「自主的にお風呂を掃除する」と言いますが、「主体的にお風呂を掃除する」とはあまり言いません。なぜでしょうか。
「自主的にお風呂を掃除する」のイメージは、親に「風呂掃除をしなさい」と言われる前に、自分から進んで風呂掃除をするというイメージです。この場合、風呂掃除の仕方は親に教わったとおりのままのことが多い気がします。
では、「主体的にお風呂を掃除する」のイメージはどんなものでしょうか。
私のイメージでは、お風呂の汚れ具合を見て、ここはこんな風に掃除しよう、あそこはこうした方がいいと自分で考え、工夫しながら風呂掃除をする様子が思い浮かびます。
「自主性」は、外部からの指示や影響を受けずに、自分の行動をコントロールする姿勢を言うようです。その際には、行動する内容はあまり問題にされません。
「主体性」は、個人の独自性や自己のアイデンティティを表現することであり、他人と異なる独自の視点や行動として現れるようです。
「自主性」の時代
私が子どもの頃は、「自主性」の時代でした。
みんな同じ方向を向いて、物質的豊かさを追い求めていました。
同じレールの上を競争して走っていました。
同じレールの上を、速く行く人、上手にいく人、ゆっくりと行く人、脱線しながら行く人……と、いろんな人がいました。
みんなで同じ歌を歌いながら、同じ時代を生きていました。
「主体性」の時代
今は、「主体性」の時代です。
どの方向へ行くかは自由で、好きなことをすればよいと言われます。
それぞれ違うレールを走ります。物質的豊かさを追う人もいれば、追わない人もいます。精神的豊かさを追う人もいれば、追わない人もいます。
自分のレールを敷ける人もいれば、敷けない人もいます。
人それぞれでいいので自由ですが、すべてが自己責任なので、厳しい時代です。しかも、それぞれ聞く歌、歌う歌が異なりますから、同じ時代を生きているように思いにくい時代かもしれません。
「タフでグローバルな東大生であれ」と濱田純一元総長が言っていたように、「主体性」の時代はタフであることが求められる時代です。
レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の探偵が、「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。」と語る場面があります。
この台詞は「主体性」の時代にふさわしい言葉のように思えてなりません。
「自主的に勉強する」から「主体的に学ぶ」へ
学校教育も遅まきながら、「自主的に勉強する」から「主体的に学ぶ」へ移行しつつあります。
時代が、「自主性」の時代から「主体性」の時代へ移行してしまったのですから、やむを得ないことでしょう。
でも、安易に「自主性」よりも「主体性」の方がいいんだ、正しいんだと主張する気にはなれません。
だって、タフでない子どもにとって、「主体性」の時代は生きづらい時代かもしれませんから。
追伸
レールの敷き方って、どう教えれば良いのでしょうか。
「教える」のではなくて、「学ぶ」のでしたね。
では、レールの敷き方を、子供たちは主体的にどう学ぶと良いのでしょうか。
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