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彼の知らないひと
※及加及のクロスオーバー
「今日は、アレがお世話になったみたいで」
「……アレ?」
ええ。と口元を綻ばせて加納は及川が咥えた煙草に火をつけてやる。事後の気怠さは甘く心地が良い揺かごだ。二人は先程までむつみあっていたベッドに腰掛けると、床に散ったシャツを尻目にバスローブを羽織った。時間にして金曜日の二十三時は少しの世間話と恋の花を囁くには頃合いだ。
「……本庁の剣道場で、胸を貸してくださったと聞きまして」
「ああ、アンタの義弟さんか」
加納はゆっくり頷くと足を組み替え、及川の肩に寄りかかった。
「まさか、面の下が世界選手権優勝経験のある貴方だとは思いもよらなかったでしょうし」
及川は加納の細く柔らかな髪に指を通して、優しく撫で上げた。もうひとり、似た髪質の男を知っているがそのクソガキとはこんな甘い話はしない。
「……悪かった。どうしても、と部下にせがまれて半ば無理やりだったからな。相手が俺と知らんのも無理はないさ」
「綺麗な太刀筋だったと、言ってました。とても剣を置いた人間とは思えない、とも」
及川は剣道の話を持ちかけられるのを好まない。加納がそれを知っていてわざと話を振ってくるのも、単にこの男の思い人が関係しているからであろう。
合田は決して弱くはなかったが、及川の敵ではないしむしろ現役時代であるなら剣を交える事すらなかったであろう。
久しぶりに剣に触れた。揶揄でもなく忘却してしまう程の懐かしさを感じるも、やはり剣は己の血肉だ。握り込んだ竹刀に血液が沸騰し、産毛がさざめき立つ。
及川と合田が対峙していた時間は五分間だが、正確には三分までに勝負はついていた。面を取り、握手を求められて相手が捜査一課の合田雄一郎だとその時初めて気づいた。これが、加納祐介の心を掴んで離さぬ男か。
***
「雄一郎、こっちだ」
日比谷公園内に佇む穴場の喫茶室は二人の待ち合わせ場所の一つだ。
昼間合同庁舎で顔を見た二人は、喫茶室で遅い昼食でもと約束を取り付けていた。加納の待ち人、合田雄一郎が五分遅れて慌ただしく店内へ滑り込んでくるものだから、加納は笑い出したくなる気持ちを抑えて軽く手を挙げた。
「すまん、久しぶりに剣道場に行っとった」
「また随分だな。どうした、何か憤りを感じているのか」
目の覚める様な白いスニーカーは彼のトレードマークと言える。その白を視界に映すと加納はメニューを合田に見せた。すると珍しくバツが悪そうに笑うものだから加納はミルクティーのカップを傾けて彼の言葉を待つ。
「何でもない。けどな、こうも潔く完敗だと何の怒りも湧いてこんのやな」
「相手は強かったのか?」
合田のオーダーした野菜サンドが運ばれてくると、それにかぶりつく。瑞々しさが同時に香った。
「四課の及川さんって知ってるか? よりによってだ。完膚なきまで叩きのめされた」
加納は一瞬カップを持つ手に力を込めたが、そんな事を合田が気づく筈もない。
「……ああ、知ってる。以前何度か同じ事件に携わった事あるからな。しかし彼はもう今は剣を置いている筈だが。まあ、大方断れない頼み方をされ、一戦だけ交えたのだろう」
すると合田は手を止め、じっと加納を見つめる。その視線の意味が分からず小首を傾げると、合田は軽く咳を払った。
「アンタ、及川さんの事詳しいんだな」
「……何故だ?」
合田は何か言いたげに唇を開くも、結局そこからは何の音も紡ぎ出せない。けれども、加納の背に言いようにもない、充足感と少し後ろめたさが走った。
大丈夫。雄一郎は知らない。及川との関係など、知ればきっと彼は逃げてしまうだろう。
続