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龍純龍小話
まだ大学生の頃の及川(4年)と麻生(2年)付き合う前、互いに憎からず思っている時期
昔から必ずと言っていい程、梅雨明け前の七月上旬になると風邪をひいた。学生時代は学期末テストと重なる事が多く、解熱剤を飲んでテストに挑んだ事も一度や二度じゃない。
けれども逆に言えば、この季節以外に風邪を患った記憶がないのだ。少なくとも物心ついてからはそうだった。
だから、つい忘れてしまう。発熱する前のなんとも言えない倦怠感と関節の痛み。それから溺れたような水気を鼻の奥に感じ耳の奥がじん、とするともう駄目だった。いくら風邪の初期症状に効果があると言われる薬を飲んでも、充分な睡眠と栄養を取ったとしても風邪菌の猛威は止まることをしらず、及川の体内を我が物顔で駆け巡る。
そうなれば、もうじたばたしたとて仕方がない。大人しく安静にし沸騰した熱が退いていくのをじっと耐えるばかりしかないのである。敵が去っていくのを待つばかりなんて、らしくないといわれればそうなのが、これは負け戦ではない。言うなれば不戦勝と言える。
「……先輩、及川先輩」
自分の名を呼ぶ声に目を開くと、世界が回っている事にまず驚いた。しかし慌てて体を起こそうにも上手くいかず、代わりに違和感が四肢を拘束しておりひたすらに気分が優れなかった。それでもなんとか首を横に動かすと、大きな躯体を丸めて心配そうに眉を寄せている男が視界に入る。後輩で付き人の麻生だ。
「あ、そ、う……か」
「大丈夫ですか、先輩。顔が、真っ赤で」
薄く霞んでいた視界が徐々に輪郭をはっきりさせてくると、同時に麻生の声も耳に届く様になる。ふいに喉を動かすと、途端飲み込んだ唾がひりひり熱を帯びて傷みだす。何とか声を絞り出して見るとやはり掠れていた。
これらの事象と今の状態とを照らし合わせると、ピースは容易に当てはまり答えが導き出された。どうやら風邪をひいたらしい。
記憶があるのは昨夜の十時半過ぎまでだ。なぜ時刻を記憶しているのかというと、流していたテレビから時を示す言葉が聞こえてきたらだ。恐らく民放の時事ニュースだった。それからひどく体が気だるくなり、麻生が布団を敷いてくれた事を思い出すもそこで記憶の糸はぷっつりと切れてしまった。
昨日は土曜日で朝から他校の試合の見学に出かけていた。夕方、早めの飯を二人で食べそのまま及川のアパートで少し飲んだ。及川はもう四年生で、引退まで間近だったがそれでも後輩の麻生への指導は熱心に行っており、その気持を麻生もしっかり汲み取っていたので二人の間には友情にも似た信頼関係が確立されていたのである。
「何か、食べたいものありますか。明日になっても熱が引かなかったら病院へ行きましょう」
及川は六畳の自室に敷かれた布団の上で、じっと天井を見つめていた。何も好き好んでシミだらけの裏板を見ている訳ではない。首を動かすと喉が痛いからだ。恐らく扁桃腺が腫れている。
麻生は及川の布団の側に座ると、そっと頬を掌で撫でさすった。剣道家の手の内側は豆だらけで、それこそまだ豆の形状を成しているならば良い方だ。固く地層の様に分厚い皮膚は決して滑らかではなかったが、及川は麻生の手を好ましいと思った。自分がある意味育てた様な物だ。
及川は肩まで掛けられた夏掛けの布団から手を出し、麻生の手を握った。きっといつもの様な強さもなければ勢いも無い。けれども後輩は口元を緩めると宝物でも抱く様な手付きで及川の火照った手を両手で握りしめた。
「先輩の体の中で、戦っているんですよ」
声が出ないので及川は小首を傾げてみせた。すると麻生は少し頬を赤らめてゆっくりと握った手をほどいた。
「体の中で先輩の免疫が風邪菌と戦って、その残骸が発熱なんだって聞いた事があります」
なんだそりゃ。と声が出るならば笑ってやりたかった。けれども今はその気力すらない。すると麻生は何処から持ってきたのか洗面器に氷水を張り、清潔な手ぬぐいを浸す及川の熱い額にそっと載せた。その急激な寒暖の差に背がひやりとするも、すぐに心地よさの方が勝り目を伏せた。
「先輩がさっき寝てる間に、薬局へ行って色々買ってきて」
及川はふっと麻生を見つめる。そして、こいつはこんなにも大きかったか。と不思議に思った。いや、麻生は大きい。長身の及川より更に三センチは高いのだ。けれども、今感じた大きさは身丈の話ではない。
「あとこれ、先輩の趣味じゃないかもですが着替えのパジャマとタオルも」
ビニール袋から出されたそれは、男物のブルーのストライプ。薬局への道すがらに衣類なんかを売っている商店があるから、そこで買い求めたのだろう。麻生は気恥ずかしいのか、間が持たないのか先程から立ったり座ったりを繰り返しており、そうして台所から水と薬、それからシュークリームを乗せた盆を持って戻ってきた。
「その、すみません……先輩が好きだって前に言ってらしたから」
及川は目を丸くするも、一瞬戸惑い少し笑った。流石に病人に洋菓子はないだろう。けれどもそれこそが麻生らしいと思えば、彼に向かって手を差し伸ばした。
「手……」
「は、はい!」
もう一度、握ってくれないか。そう伝えたくとも声にならない。しかし麻生は黙ってその手を握った。
そうしてそのまま片方の手は及川の頬をゆっくりと撫でる。熱で目を潤ませた及川がいつもよりずっと幼く、弱々しく見えたのだ。ただ、それだけ。それだけだ、と麻生は自分に言い聞かせながら手をきつく握った。及川も何も言わない。外は雨が降り出していた。
終