夢の途上〜30年越しの実現。アンスネスのピアノを聴く
21年前、子どもを産んだとき、私は母として生まれた。
それを祝福するかのように、オペラシティのイルミネーションは、まるで巨大なバースデーケーキのようだ。
普段は黒一色は決して着ないのに、この日は黒いシースルーのブラウスに黒のキャミソールパンツを選んでいた。子どもの誕生日であると同時に、私にとっては喪の儀式になると、どこかでわかっていたのだろう。
昼間は申し分のない秋晴れだったが、夜は少し肌寒く、黒い革ジャンを羽織った。胸には小さなダイヤとパールがあしらわれた、溶けるほど細い18金のネックレス。20年以上前に友人からもらったものだ。いつも特別な日につける。今日は死と同時に誕生の日でもあるのだから。
レイフ・オヴェ・アンスネスのコンサート。
カプラという平べったい長方形の積み木を慎重に高く高く積み上げたようなホール天井のてっぺんはピラミッドのような形になり、一面だけがガラスになって、黒い夜空がその先に遠く見える。手の届かないその場所に、何か大きな大きな存在を感じる。ガラスの向こうに、今にも積み木を並べ替える大きな手が見えそうだ。比べて私たちはなんてちっぽけなんだろう。
まるで無邪気に子どもが人形で遊ぶように、しかし同時に完璧に計算され、配置されている。すべては神の計らい。
時間と空間を超えた浄化の体験であった。
200年前に作られた曲が、時間も場所も超えて届けられる。
ブラームス、ベートーヴェン……かつては自分も弾いた作曲家たち。彼らはどんな想いでこの曲を作ったのか。彼らの生きた時代、苦悩、喜びに思いを馳せる。
自分の学生時代を思い出す。懐かしく出会う。グランドピアノが置かれた狭いレッスン室、赤鉛筆で書き込まれた楽譜、友人たち、試験官……。
悲愴を弾いていた、受験を決めたときの行き場のないどん詰まりの私。あの苦しさ。
音楽に救われたなどと美化して片付けたくない。私が私を保つための手段だった。選んだわけでない。やむにやまれず、傍らにあって夢中でつかんだワラのようなもの。音楽のおかげで完全に壊れずに済んだ。髪の毛を引きちぎる代わりに楽譜を読み鍵盤を叩いた。よく、生き延びた。
30年前の、15才の私が見える。震える背中が見える。耐えろ。人生は思いがけない方向へ進むから。そして、30年後、悲愴を聴いている。今はまだない場所で。まだ知らないピアニストによって。これからの道のりで、まだ気づいていない、あなたがほんとうに一番ほしいものを手にするから、安心して。進め。
並行現実はほんとうにあるのかもしれない。
気づいたらもうひとつの世界の私に、祈りを送っていた。
エーテル体のように可視化される音。
こんなふうに立ち現れるなんて。音が目に見えるようなのだ。
あっけにとられた。
なんてことだろう。
4歳からピアノを習い「ピアノを知っている」と思ってた私は、ピアノをまるで知らなかった。
こんな音が出るんだ……
聴いたことのないピアノの音を、アンスネスは弾いた。
なかでもドボルザークは圧巻で、その特有の和声と歌は、まるでひとつの大きな物語。一本の映画を観たようだった。
言葉でなく音楽でも、物語は語れることを知った。
いやまさに、物が、語ったのだった。
私たちは物の語りの目撃者。
未知の世界への冒険のようだ。発見と驚き。
しかし、あの体験を言葉にしようとすると、たちまちその完璧で調和した世界は崩れてしまう。断片しか記せない。
約30年の願いが叶った。
17〜18歳の頃、アンスネスのCDを初めて聴いて、心奪われ、ずっと生で聴きたいと思っていた。
若いときのアンスネスも素晴らしい演奏をしたに違いない。
でも、私は今、聴けてよかった。
聴き手としての自分も、今でよかった。お互いに歳をとり、人生の様々な出来事に出会い、喜びや悲しみを知り、ほどよく老いて。
演奏は実に落ち着きがあり、決して出しゃばらず、華美とは無縁で、静かでやわらかい印象だ。作曲家の意図を理解し、解釈し、演奏者として曲の命を吹き込む役に徹している。けれどそこにアンスネスならでは音楽が自然に流れていて、どちらも一人歩きしていない。作曲者、演奏者が共に手をたずさえ、進んでいる。まさに時空を超えた共演だ。
そこに聴き手たちの人生が無数に重なり合い、観察者も音楽の一部になるのだ。
母としては死ぬ私へのレクイエム。労り。ねぎらい。
そして、母になる以前の、苦しかった過去を抱きしめる時間となった。
さらにはこの世に生まれる以前の記憶も、つまり私たちが何者だったのかという記憶も確かにそこにあり、魂の一部は昇華され、新たな道への祝福となる。鎮魂と賛美。
なんという多幸感。
拍手はなかなか鳴りやまなかった。
私はまだ、最後の、ほんとうにほしいものをつかんでいない。それは今回の人生で求める最後のひとつかもしれない。そして、もしかしたら、一生つかむことはないものかもしれない。それでもいい。
新しい目標へ踏み出すのだ。
21年前、息子をこの世に産んだように、私は新しい私を産む。
まだ、夢の途上にいる。
家に帰ると、テーブルの上に、白のスパークリングワインのボトルがリボンをかけて置かれていた。
〜最後まで読んでいただき、ありがとうございます♪〜