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剣の魔(前編)
1、
歴戦の兵にして、泣く子も黙る傭兵団の副隊長レセトであっても、不覚をとることはあるものだ。とりわけ、この気のいい黒人戦士の唯一の弱点を衝かれたとあっては、宜なるかなである。すなわち女だ。
とばっちりなのは、折悪しく同伴していた放浪の戦士タルスである。いかに友誼を結ぶ間柄とはいえ、色香にあてられた後始末にまで殉じる謂れはない。しかし、今となっては一蓮托生。同心協力しなければ窮地を乗り切るのは難しい。彼らの臭跡を辿る猛犬と、その後ろから迫り来る、白刃を閃かせた追手に付きまとわれている今とあっては。
*
「おい……本当に……此方で間違いないのか?」
「だろう……と……思う……」
二人とも、情けないほど息が上がっているのだった。藪を漕ぎ、道なき道を進むこと丸一日、地面は爪先上がりに傾斜し、木々は疎らになっていった。代わって、歩きにくい岩場が目立ち始め、辺りは山岳の様相を呈していた。二人とも裸足で、下帯一枚に革のマントを被っただけの甚だ情けない半裸姿であった。レセトのヒョロリと縦に長い躰と四肢も、タルスのずんぐりむっくりな躰についた短い手足も、葉や枝や鋭い小石がまんべんなく苛み、生傷だらけだった。陽は急速に翳り、乾季とはいえ、高地の気温は駆け足に下りつつあった。
二人が捉えられていた山間の集落は、一見、杣人の小屋が寄り集まる鄙であったが、その実、山賊の隠れ里だった。元々、野盗どもは、街道近くの郷邑を隠れ蓑としており、山賊狩りを請け負った傭兵団は、窺見にと、レセトを邑に潜入させたのだった。
行商人を装い、巧みに誼を通じたのはさすがであるが、蛾眉の後家ーー実は山賊の頭目の情婦ーーとたちまち懇ろになったのは余計であった。
山賊討伐にあたって傭兵団は、見事、頭目の首級を挙げたが、弟の副頭目と一味の数人を逃してしまった。その際、連れ去られた情婦ーーレセト曰く〈意外と初心な御婦人〉ーーを救出すべく、タルスは、山賊の潜窟に同道したのだった。
見上げたことに、と云おうか、呆れたことに、と云おうか、この誘い罠の首魁が、彼の〈御婦人〉本人であると発覚してもレセトは、恨むどころか、女の無事を大層喜んだ。これにはさすがの〈御婦人〉も、毒気を抜かれた御様子であった。
とまれ、武器はおろか身ぐるみはがされ、獄に繋がれ、後は苛烈な責め苦を待つばかりとなった二人は、タルスが身につけたヴェンダーヤの苦行僧の秘術で辛うじて鉄鎖を破ったことで、何とか脱出を果たした。そして取る物も取り敢えず、着の身着のまま、逐電したのだった。
追手の気配を感じながら、硬い木の実を生のまま齧り、沢の水を啜って、不眠不休の強行軍を我が身に強いてきたが、そろそろ体力の限界が近づいていた。早く見つかりにくい場所を探して、躰を休めねばならなかった。
二人が困難な山道を選んだわけは、追手が容易に先回りできる人里方面を避けたのと、山賊を含む国人たちの怖れる禁忌の場所が、この山域にあるからだった。無頼の徒ほど迷信深いのは、レセトたちとて同じ穴の狢であるゆえ得心がいく。最後に頼るのは、己の力と神々しかないからだ。わずかなりとも、追撃の手が弛んでくれればとの望みで、此処まで突き進んで来たのだった。
そろそろ斜面を登りきろうとする辺りに、突如それは現れた。尾根に近い険しい場所に、見上げるほどの巨巖が聳えているのだった。
いや、よく見ればそれは、ただの天然自然の巖ではなかった。左右の二つの巨巖は、三角屋根のように凭れ合っているのだが、その隙間は人が通れる幅に削られ、隧道の入り口になっていた。元々は自然物なのかもしれないが、明らかに人の手が加えられている様子である。
「……これが?」
レセトが薄気味悪そうに云った。その吐く息が白く見えるほど、気温が下がっていた。低く垂れ籠めた黒雲から、微細な雨粒が落ち始めていた。
「おそらく……な」
こうしてタルスたちは、在の者らが〈社〉と呼ぶ怪異の懐に、自ら飛び込んでしまったのだった。
2、
隧道の中の空気は死体のように冷えていたが、ムッとするほど黴臭くもあった。タルスとレセト両名が身を屈めて入ると、薄れゆく日の名残りが、かろうじて奥まで射していた。つまり隧道自体は、それほど深くはない。すぐに行き止まり、その先は、天井の高い空間になっているようだった。
この何の変哲もない巖の切れ目の何処が、獰悪な山賊どもを畏怖させているのか。二人は顔を見合わせて、首を捻った。
それでも一応、用心しいしい、歩を進めた。奥の空間は、狩猟小屋ほどの広さの石室であった。天井は一枚岩だったが、壁は平たい石の板を幾つも積んで造られていて、部屋は全体で多角形を成していた。多角形の各辺には、腰から上の高さに、壁龕が切ってあった。〈社〉というのが正しいとするならば、上辺が半円状の壁龕の一つ一つには、彫像なり聖遺物なりが祀られていたと思われるが、いまその凹みは、ただの虚ろな洞になっていた。いやーー。
ひとつだけ、中身の残っている壁龕があった。
「お、こいつはお誂え向きだ!」
見つけたレセトが、歓声を上げた。
それは、凹みの真ん中に、切っ先を上にして、台座付きで恭しく据えられた、一振の剣であった。
タルスとレセトは、戦士としてその得物の特徴をすぐさま見て取っていた。
抜き身のそれは、剣としては、小ぶりな部類に入る方であろう。近接戦闘において真価を発揮するような、刃渡りも欛も短めの剣である。両刃で真っ直ぐな刀身は、幅広で肉厚、そしておそらくは数世紀を閲しているであろうに、まるで昨日、鉄床から鍛え上げられたように耀いているのだった。
さらに特異なのは、その切っ先であった。剣先が、真ん中で左右二つに割れており、外側に反っているのだった。それは毒蛇の舌先を思わせ、タルスは我知らず背中がゾクゾクとしたが、半裸のせいだと己れに言い聞かせた。
とはいえ、剣は剣であった。迷信深くはあっても、目の前の利便を放棄するような二人ではなかった。タルスとレセトは、すぐに焚きつけの準備に入った。気温はいまだ下がり続けていて、二人の体力を奪っていた。
隧道の外に取って返して、かじかんだ手で、枯れた針葉樹の葉や、なるたけ乾燥した小枝、太い枝を拾い集めた。
それらを隧道に持ち込むと、レセトは件の剣を、壁龕から外した。そして、やはり外で拾った石を、刃と打ち合わせた。根気よく何度も試みると、ようやっと、飛んだ火花が枯れ葉に移った。二人は慎重に炎を育てた。
ようよう、焚き火が興り、二人は満足の歓声をあげた。
*
「クソッ! 火酒が欲しいぜ。せめて葡萄酒でも!」
火の番をしながら、タルスは毒づいた。
炎は安定してきたが、辛うじて暖をとれる程度のものだった。しかも生木が混じるため、煙や煤が多く目や鼻が痛い。とはいえ贅沢は云っていられない。隧道の外では、雨声が強まっており、二人はこの冷たい雨が、逃亡者の臭跡を消してくれることを願った。
「何か、面白いことでも書いてあるのか?」
件の剣をしげしげと眺めながら、レセトは、否定の唸りをあげた。
「まったく読めん。お主はどうだ?」
タルスは、受け取る気もおきず、レセトのかざした欛を、薄明かりでおざなりに見遣った。確かに文字らしき絵柄がそこにはあったが、タルスの知識にはないものだった。
「異種族の文字じゃないのか?」
「ふん。だったら、尚の事、分からん」
タルスは人間ではない。ルルドとモーアキンの間の子である。しかし幼い頃に捨てられて人間に拾われた。異種族の文化にはまったく疎く、寧ろ人間の学者や魔道士の方が、よほど異種族に詳しいだろう。若い頃に大陸を渡り歩いたレセトもまた、諸言語に通じており、また案外と学識が高い。そのレセトが知らないのならば、現世時代の言語でない可能性が高いと思われた。
しかし呑気な漢だ、と薪をくべながら、ついつい恨みがましい心持ちが沸き上がった。この享楽主義者の副隊長どのは、どんな危地でも何とかの面に水で、平気な顔をしているが、振り回される方は堪ったものではない。無事に帰りついたら一杯奢って貰わねば割に合わん、とボヤキかけたタルスは、相棒の異様な様子に固まった。
レセトが剣を握りしめ、宙を睨んで、ブツブツと何かを呟いていたのだった。力み返った躰は、瘧《おこり》に罹ったかのように、ぶるぶると震えていた。呟きは次第に激しく、高まっていき、もはや絶叫めいた詠唱になっていったが、口にしているのは、タルスのまったく知らぬ言語であった。いや、レセトにとっても、未知の言語であるに違いなかった。
変化はそれだけではなかった。炎に照らされたレセトの影が、不可解な跳梁を見せていた。伸び縮みする影は、途中で二手に分かれ、それぞれが別々の生き物のように無手勝流に動き回っているのだった。それは、火影とは思えぬようなくっきりとした輪郭を持ち、一方は、蝙蝠のような皮膜を拡げて羽ばたき、もう一方は、ハッキリと鎌首をもたげる蛇の構えを見せた。
そしてーー呆気にとられているタルス目掛けて、レセトが襲いかかって来た!