海神の末裔(一)
1、
名高い、リューリクの男娼の噂は聞いてはいたが、実際にお目にかかったのは初めてだった。噂に違わず、そのなよやかな姿態にはただならぬ妖艶さがあり、成る程、黄金を積んで身請けする貴族諸侯が後を絶たないと云うのも、むべなるかなである。
大河ヴォルの河口の都邑リューリクは、北大陸と往き来する船で賑わう南北貿易の拠点であるが、南大陸いちの遊廓でも知られていた。
尤もタルスが、シスと名乗る黒人男娼にまみえたのは、娼館ではなく波止場近くの裏路地のことであった。それはタルスが、北大陸から交易船でやって来て、初めて南大陸の土を踏んだ日のことで、久方ぶりに、焼き魚と強い濁り酒という新鮮な晩飯にありついて船に戻ろうとしていると、夕靄の立ち込める街角で刃傷沙汰に出会したのだった。
タルスはただちに踵を返して遠ざかろうとした。リューリクは寄港地のひとつに過ぎず、彼の目指すのはもっと南の地だったからだ。こんな処で、余計な厄介事に巻き込まれる訳にはいかない。
しかし、蝙蝠月の番神トトの握る運命の棹は、とっくにタルスを数奇な絵柄の中に織り込んでいた。
月影と、角灯から洩れた明かりが靄に反射して、場景を浮き上がらせた。
追われていたのは、外衣の帽巾で頭をすっぽりと覆った二人組で、それを白刃をきらめかせた六人の屈強な男たちが取り囲んでいたのだが、襲撃側にとって目撃者はよほど具合が悪かったのであろう、そのうちの一人が問答無用でタルスに斬りかかってきたのだった。
本意でなかったが、黙って斬り殺されるタルスでもない。身に付けたヴェンダーヤの苦行僧の体術が役立った。男の斬撃を、辛うじて左に半身になって避けると、タルスはすかさず間合いを詰めた。右手で柄を握る手を抑えつつ、同時に左手の裏拳を鼻面に叩き込んだ。鼻骨が潰れ、血が飛び散る。
剣術には縁のないタルスであるが、その一合で、太刀行きの鋭さと剣筋の確かさから、男は正規の訓練を受けた軍人であろうと見当がついた。破落戸然とした格好をしていても、隠し通せるものではない。厭な予感がした。
それを契機に、包囲網が乱れた。
二人組のうちの一人が、短い刀身の舶刀を抜き打ちに放った。タルスに気を取られた襲撃者の手首がひとつ落ちた。悲鳴が上がった。
ええい儘よ、とばかりにタルスは、猫族の獣めいた瞬発力で跳び上がった。中空で手前の敵に蹴り込む。対手にとっては、余程、意外な挙動だったらしい。防御も出来ず頚筋に足刀を食らったそいつは、無様に吹き飛んだ。角灯が転がる。これで三人が戦闘不能になった。
しかし、着地の隙を四人目は見逃さなかった。地も割れよとばかりに、土壇切りに切り下ろしてきた。タルスは横に跳んで地を転がった。その勢いのまま、転がった先にいる五人目の男に足払いを仕掛けた。膝より下の攻撃に慣れていないらしいそいつは、もんどりうって転倒した。
タルスは素早く起き上がり、闘いに有利な位置を取ろうとしたが、敵の動きの方が上手だった。
「ぐっ!!」
灼熱が左半身に走った。殺到した四人目の烈剣が、タルスの左肩から腕にかけてを抉ったのだ。革と布の旅装は無惨に切り裂かれた。が、二撃目は届かなかった。六人目を片付けた舶刀使いが、割って入ったからだ。飛び退いたタルスは距離を空けた。
対立構図が定まったようだった。味方勢はタルスと舶刀使い、それにもう一人を加えた三人で、敵方は二人。
数の上では此方が有利に思えるが、帽巾のもう一人は、先般より闘いに参加しておらず戦力外とみなすべきだろう。タルスは躰からどんどん血が失われ、力が抜けていくのに焦りを覚えた。左腕が痺れて動かなくなってきている。
一方、敵方は見立てが正しければ職業軍人で、しかも無傷。形勢は良くない。
「おい、止せ」
舶刀使いが、もう一人が前に出るのを制した。そいつは、舶刀使いを無視して踏み出すと、帽巾を上げて顔を晒した。
驚いたのはタルスだけだった。帽巾の下から現れたのは、髪を短く剃り上げた黒人だった。華奢な頸に整った顔立ちが乗っているが、性別を超越した雰囲気がある。橄欖色の肌は絖のように滑らかで、細い眉はきりりと持ち上がっているが、目許は砕いた孔雀石で緑青に彩られていた。男娼だ。その黒人男娼が、口を開いてやにわに詠い出したのだった。
それを尋常の意味で詠唱と呼んでよいのかタルスには判らなかった。そもそも、これまで耳にしたことのある、どんな言語とも違って聞こえた。強いて云えば、海棲生物の啼き声に近しいだろうか。そこには明らかにある種の規則性、体系性があり、より云うなら芸術性があった。紛れもなくそれは詠であった。
その韻律は、タルスの意識にひとつの感情を惹き起こした。鮮烈な感情だった。理智とは別の次元の、食欲や睡眠欲のといったほとんど本能のような感情ーー渇望だ。人語に翻訳するならこうなるだろう。還りたい、と。
ーーそうだ、還るんだ。
無意識にタルスは足を踏み出しかけ、しかし戸惑った。
俺はーー。
俺の還る場所とは何処だろう? あの屎尿臭い盗賊都市タンムードの裏路地だろうか? それとも奴隷商人が幼子のタルスを拾ったという西の原野だろうか?
が、その躊躇いも、怒濤のごとき感情に押し流される。
何処であれ、還らねばならない。ーー今すぐに。
心なしか、取り巻く靄が濃さを増したようであったが、それが現実のことなのか、タルスの脳内だけのことなのか、もはや判然とはしなかった。
兎も角も、一刻も早く、断々乎として、還らねばならない。躰さえ許せば駆け出したいくらいだ。
夢幻と現、此岸と彼岸が、既にして融け合い、混ざり合っていることに、タルスは気づかない。
タルスの前には、対峙していた二人の刺客が先行して歩いていた。
嗚呼、彼奴らも還るのだ。
歩みを止めることなく、一人が、波止場の際から無造作に踏み出し、海に落ちた。その先に道が延びていることを、疑ってもいない風情だった。次いで、もう一人も、躊躇なく海の藻屑となった。
俺も還らなければーー。
焦燥が、タルスをジリジリと烙く。心だけが先走り、足が縺れる。たたらを踏む。
が、タルスが正気を保っていられたのは、そこまでだった。血を失いすぎたのだ。踏ん張りが効かない。力が入らない。意識が、スウッと溶暗していき、タルスはその場にくずおれた。
2、
船を濯う波の音と揺れが、意識にこじ入ってきて、タルスはうっすらと目を開けた。たちまち激痛が甦り、呻き声が洩れる。
「あ、気づいた」
痛みで滲んだ目を向けると、覗き込んでいる顔に焦点が結ばれた。あの黒人男娼だった。男娼は求めるままに、タルスに水を飲ませてくれた。角灯とおぼしき柔らかな明かりが、波のうねりに合わせて揺らぎ、念入りに化粧をほどこされた蠱惑的な顔に影を躍らせている。
「……ここは?」
タルスは、交易船の中で覚えたばかりの南方語で訊いた。
「〈鳥影丸〉だよ」
それで凡てが判るだろう、というように素っ気ない。少し厚ぼったい唇が堪らなく艶かしいだけに、いっそう小癪な印象である。
それでもどうやら己れが船の上に横たえられていることは認識できた。首を起して見回してみればそこは、五、六人ほどが定員の小型帆船の艫で、船は波の穏やかな外海を、陸風を受けてゆっくりと移動しているようだった。タルスの左の腕と肩には、応急手当としてぼろ布が巻かれていた。
「傷口は釣り針と糸で縫ってあるよ。運良く健も骨も痛めてないみたい。安静にしてればくっつくんじゃないかな」
「あんたが助けてくれたのか?」
ふん、と黒人男娼は鼻を鳴らした。
「俺はうっちゃっておけ、って云ったんだ。でもヴェリタスが一緒に連れて行こうって……」
「シス」
操船をしていたもう一人の男が、舳先からやって来た。
一見して船乗りと判る格好の青年だった。茶色い巻き毛の美丈夫で、いかにも海の男らしい浅黒い肌の持ち主だが、精悍さよりも、落ち着いて柔和な、学者のような雰囲気を纏っていた。
「先ずは礼を申し上げる。貴方の助力がなければ、リューリクからの脱出は叶わなかったろう」
青年が丁重に感謝を述べた。言葉遣いから、青年が裕福な家柄の出自であると推察された。よく見れば着ている物もみな上等で洒落ており、そこらの水夫とは明らかに違う。
「私はバルン島のヴェリタス・セルベディエン。此方はリューリクのシスだ」
「タルスだ。北からやって来た。セルベディエンという名には聞き覚えがあるが?」
「ヴェリの家はバルン島の領主様だよ」
シスの注釈にタルスは内心で唸った。
北大陸と南大陸の間に拡がるレンス海は、大小様々な島嶼がひしめく多島海域であり、各島々は独立した小王国のようになっている。バルン島は、タルスも往きに立ち寄った大きな島だ。交易の中心地であり、緩い同盟で結ばれた多島海域の政治権力たちの、盟主的な立場でもある。
しかし斯様な貴顕が、供も連れず刃傷沙汰に及び、あまつさえタルスのごとき流れ者や男娼と行動していることが、何やら尋常でない事情を垣間見させた。
「それでは行き先は、バレリア?」
バレリアはバルン島いちの都邑であり、尖塔と天幕ひしめく、レンス海有数の商都だ。セルベディエン家の本拠地で、豪奢な館が高台にそびえている。
「いや……」
ヴェリタスは云い澱んだ。
「タルス殿には申し訳ないが、この船はバレリアには向かわない」
それに、と加える。
「貴方を何処かの島に降ろすことも出来ない。追手に感づかれないために」
その思い詰めたような表情を見る限り、理由を訊ねても直ぐには教えて貰えそうになかった。しかし、寄港しないとなれば、痛み止めの薬湯もないまま、生まれ持った体力のみを頼りに過ごさねばならない。そこで違う角度の質問をした。
「あの刺客たちは、ただの物盗りではなかった。貴君がレンス海いちの若殿と知っての狼藉か?」
ヴェリタスは逡巡したが、シスの方が黙っていなかった。
「彼奴らは、司祭に遣わされたダルファル兵たちさ。普段から、小遣い稼ぎに銀貨で裏の汚れ仕事をしてるのさ。日の高いうちは〈聖なる金糸の魚〉を見せびらかして、威張り散らしてるのにね」
吐き捨てるようにシスは云い放った。
港湾都市リューリクは、建前は南大陸南東の王国ダルファルの支配に服していた。そのため、形式上の行政官として、王国から司祭が派遣されてくる。しかし、住民ーー商人と漁師ーーの殆どは内陸人ではなく、レンス海からやって来た海人族の末裔であった。つまり、実質は商人を中心とした自由民による自治都市なのだ。一定額の税を納めることにより、リューリク側もダルファル側も、双方が面子を保ちつつ冊封の恩恵に預かっているのだった。
が、当代の司祭はアスカランテといい、これ迄になく本国の権勢を嵩にきた専横ぶりだという。〈聖なる金糸の魚〉とは、ダルファルの、世界魚を祀る密儀宗教を象徴する文様である。
「しかし、そのアスカランテという司祭も怖いもの知らずなのではないかな。いかに力を持っていようと、所詮はいち行政官にすぎぬ。貴君の御身に大事があって、よもやセルベディエン家と対立するような事態になればただでは済むまい」
タルスは動く方の手で、自らの喉を掻き斬る仕草をした。
だがヴェリタスは、暗い表情で首を振った。
「ところが、そうはならないのだよ。此度は彼奴に理があるのだ」
どうやら諦めて事情を話すことにしたようだ。
「アスカランテは、ただの司祭じゃない。元々、ダルファルの名家の放蕩児で、いち行政官にとどまらない財力と権勢を持っている。そしてーーシスを身請けした旦那でもあるんだ」
ヴェリタスのため息には、懊悩がまぶされていた。
3、
太陽の位置から〈鳥影丸〉が東に進路を取ったと知れた。夜が明けても船は順調に進み続けた。時折、痛みに顔をしかめつつ首をもたげるが、四囲にはひたすら果てのない大海原が拡がっているばかりである。帆船には予め水樽も食糧も積みこまれていたようだが、行き先を知らぬタルスにとっては不安極まりなかった。いざとなればレンス海に放り込まれ、魚の餌となることも覚悟せねばならないのかもしれない。
タルスは交易船で見せてもらった海図を思い浮かべた。レンス海の東海域は、名もない小さな島が点在しているだけの、空虚な世界ではなかったろうか。
かつてこの海域には、優れた文明を持つジンガリアという島があって、強大な力を誇っていた。往時、その民びとはレンス海全域を支配していて、その勢力は南北の大陸にまで及んでいたと云う。しかし五千年ほど前、海域に侵入してきた人間との抗争でジンガリアは衰退した。最後の手段としてジンガリアは、魔術で人間の本拠地に大津波をけしかけようとした。が、人間側の魔術師に魔法を返され、逆に一夜にしてジンガリアは海中に没したという。
そう、伝説の通りならばジンガリアは、人間の国ではなかった。ジンガリアの住人については、断片的な言い伝えが散見されるのみで、いかなる種族であったのか、もはや時間の靄の中に埋もれてしまっている。しかし今も残る東海域の島のそこここには、原始林に覆われた謎深き谷があり、古の文明の痕跡の石柱群が並んでいるという。
往古の、今はなき種族の姿を、タルスは夢想する。傷による発熱がタルスを襲っており、今はただじっとしていることしか出来ない。思考は在らぬ方角に飛び、いつになくタルスを内省的にした。
波止場での出来事を、タルスは朧気に憶えていた。鮮烈な感情に支配されたことを憶えていた。刺客たちが、次々と海に落ちていったのを憶えていた。
あれが幻術の類いなのか、呪いの類いなのか知らない。ただひとつ云えるのは、あれがシスの持つ力だと云うことだ。そして、タルスが命を拾ったのは、怪我で躰が動かなかったからだけではないとも思っていた。
あの、還りたい、という激しい欲動は、タルスにとってはっきりとした象を成さなかったのだ。何故ならタルスは、己の還るべき場所を持たない存在だからだ。そこが刺客たちとは異なった。
タルスは人間ではなかった。ルルドとモーアキンの間の子であるタルスの総身は、筋肉の鎧を纏った強壮なものであるが、手足は短く不恰好でもあった。今はもう姿を見ることのないーー南大陸ではとりわけーー二つの種族がどんな者たちだったのか、何処に棲み、どのような文明を営んでいたのか、タルスが知らない。この先、己れという存在の元祖にまみえることがあるのか、いやさ、突き詰めれば己れとは何なのかーー。
身動きできぬままタルスは、暗鬱な思惟に沈むのだった。
東進すること三日、その島陰が見えたのは午後も遅い時刻だった。
水平線に、峨々たる山並みがたち現れ、ヴェリタスは舵を取ってそこを目指した。
その頃には、タルスの熱は治まりつつあった。ヴェンダーヤの邪行の中には、呼吸法によって肉体を操作する術があるが、タルスは今それを、傷の平癒に集中させ用いていた。元来それは、あくまで生体に内在する力を制御する技であり、弱りきって術の原資となる力が少ない今の状態で治療に集中させれば、体力全体はさらに弱まる道理だった。無から有を生み出すことなど誰にも出来ない。宇宙の法則に反するからだ。
が、さりとて傷を治さなければこの先、身を守ることすら覚束なくなる。タルスは腹を括った。道連れの二人に命を預け、治療に専念することにしたのだった。
*
その島は、周囲を峻険な岩壁に覆われていた。夕闇の迫るなかでもなお、外洋から打ち寄せる波濤が白く砕け、泡立つのが映えていた。
帆船は島をぐるりと廻った。すると島の北側の、堅牢な城壁めいた岩壁に一箇所、切れ目があった。ヴェリタスは巧みな操船でその切れ目に帆船を挿《い》れていった。切り立った巌が此方に雪崩かかってくるようで、タルスは背中がムズムズとこそばゆくなった。
細長い入り江の最奥部に、帆柱がぎりぎり通る高さの海蝕洞窟が見えてきた。ヴェリタスが、隘路の微妙な婉曲に合わせ、より慎重に船を進める。
まさか、とタルスは身を強張らせた。波の上下左右によって、船が洞窟の口の何処にうち当たってもおかしくはなかった。当たれば斯様な小船なぞひとたまりもあるまい。
タルスの懸念を他所に、ヴェリタスはいっさんに洞窟を目指す。怪物の口蓋めくそれが、ぐんぐんと近づいてきて、あっという間に視界を覆わんばかりになった。
当たる、と云う瞬間、タルスは思わず目を瞑ってしまった。
ごう、という唸りとともに気圧が変化した。絶妙の加減で、船が開口部を潜り抜けたのが判った。
目を開けるとそこはすでに、広くて暗い空間の内部であった。いつの間にかシスが、手回しよく角灯を点しており、その明かりで周囲の様子が知れた。二人が此処にやって来るのは初めてではないようだった。
うっすらした明かりに照らされたそこは、マーゴ原野の地下にいまも住まうという穴居人の原始王宮のようだった。海水に穿たれて天井と海底を繋ぐかのように残った縦長の岩が、あたかも列柱のように連なって見えるのだった。
いやーー。
傍を通りすぎた際に目に飛び込んできた〈柱〉には、浮き彫りらしき装飾があって、何者か意思を持つ者の手が入っているのが知れた。この地下空間は、純粋に天然自然の造形物ではなく、何らかの目的により手が加えられているのだった。しかしその浮き彫りの絵柄と来たら!
そこには狂った詩人ザリ・アシャラクの幻視した、悪夢めいた姿の化け物が躍っていた。彼の者の譫言の中でしか顕れないような、おぞましい海凄の怪物どもの交歓の場面なのだった。
やがて船は、洞窟の奥の、砂地になっている箇所に行き着いた。
船が留まるのを待ちきれず、シスが水に飛び込んだ。
「還ってきた! ついに還ってきたよ!」
シスの声は上ずり、昂奮しきっていた。
「おい、こら! 危ないぞ!」
それまでの、冷笑的で愛想のない様子とは一変して、シスは無邪気とも云えるはしゃぎぶりだった。その様を、ヴェリタスが頬を緩ませ眺めている。
船上の語らいによって、この二人が生涯を誓った恋人同士であると聞いていた。この逃避行はそもそもが、アスカランテ司祭に身請けされる直前だったシスを、ヴェリタスが横取りして逃げたのが始まりで、無論のことそれは斯界の禁忌なのだった。
二人を強襲したのはアスカランテが動かしたダルファルの兵士であり、司祭の公私混同なのは間違いないが、さりとて、正規の代金を支払った「品物」を盗っ人から取り返さんとする自力救済なのも事実であった。
ヴェリタスと一緒に船を浜に上げ、積み荷を砂に下ろした。まだ体力は万全の状態に戻っていないが、傷はかなりよくなっている。ヴェンダーヤの邪行の成せる業であるが、そのため二人に妖術使いのごとく扱われるのには閉口した。
シスが消えていったのは、洞穴の中にぽっかりと拓けた砂地の端、左右を岩壁に挟まれた急傾斜の隧道で、その小径が上に向けて伸びているのだった。
積み荷を担いだタルスとヴェリタスも、後に続いた。途中には幾つか枝道があって、うっかり迷い混めば、一人で抜け出られるとは思えない。タルスは、ヴェリタスを見失うまいと慎重になった。
かなり長い隧道を登りきった先は、島を取り巻く崖の根元で、岩の裂け目から二人は外に出た。タルスはそれが秘密の隠し通路ではないかと怪しんだ。知らぬ者には、岩壁の亀裂の向こうに径を見いだすことは出来まい。
少し前から洞窟に向けて強い空気の流れが吹き込んでおり、案の定、島全体が外海の沖つ風にさらされているようだった。
タルスは初めて島の内側の全景を見た。歪な半月型をなす島は、周囲をぐるりと外輪山めいた岩山に囲まれていて、まるで己れが水盤の中に立っている心持ちになる。岩山は、外海の風を防ぎきれてはいないようだった。島の内側の植生は、丈の低い樹木と地面にへばりつく下草で構成され、風の影響を思わせた。
異様なのは、水盤状の窪地の真ん中に、植物群から屹立して、半ば崩壊した建造物が聳えていることだった。周りの景色から隔絶し、まったく調和していないその神さびた建造物は、何処か禍々しく、忌まわしかった。
今しも西の岩壁に隠れんとする落陽が、寂然たる遺跡の石柱に、最後の緋色を投げかけていた。東の空にはすでに星が瞬き始め、寒風に夜雲が千切れている。タルスは訳もなく寒けをもよおしたが、それが夜風のせいなのか、眼下に聳える太古の建築物のせいなのか、判然としないのだった。
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