1、
密林は無限に続くかと思われた。
脳巓に当たると、痛みにすら変わる大粒の雨滴が絶え間なく降り注ぎ、浴び続けていると気がおかしくなりそうだった。無意味と知りつつも片手で顔を拭わずにはいられないのだが、修行中、滝の落水を浴びていた頃を思い出し、いっそう気が滅入るのだった。
しとどに濡れ、いっそ毒毒しいまでに鮮やかになった緑、緑、緑が、合わせ鏡のように前も後ろも果てしなく折り重なっている。
もうどれくらい泥濘の中を歩き続けているのか、タルスは判らなくなっていた。ひと足ごとに沓は沈んで都度引き抜かねばならず、僅かの道程を進むにも体力が奪われた。足の裏の皮はとうにふやけ、皮膚が破けていたが、どうすることも出来なかった。
氾濫した河の濁流に巻き込まれ、道連れたちとはぐれてから、少なくとも三日は経っていた。雨季の真っ只中、天蓋然と頭上を覆う巨大な羊歯類の森では、昼間でも太陽を拝むことは叶わない。夜も雨は降り続き、一時も心休まる暇はなかった。流された際に頭を打ったか、疲労のせいか、方向感覚は狂いっぱなしだった。どうやっても森を抜けることが出来ないのだ。
こうして、ンチャナグァンの大密林を彷徨った挙げ句タルスは、森の中に隠れるように営まれた邑に辿り着いたのだった。
*
「人豹を殺しておくれ。憎い、憎い、憎い、人豹を!」
瀕死のタルスを助けてくれた老婆は、当然のことと、要求を述べた。タルスにすれば恩誼に報いないわけにはいかなかった。
邑は、密林を円く切り開いて作られていた。真ん中に共同の広場があって、その周りを円を描くように、茅葺きの小屋が囲んでいた。それらはひとつを除き廃屋であり、とうに朽ちて崩れ落ちているものがほとんどだった。小屋の造りは木の骨組みに、茅で屋根と壁を葺いただけの粗末なものだが、いまタルスのいる無事な一戸は少なくとも乾いていて、囲炉裏に火が入り、土の鍋では干し魚のスープが煮えていた。湯気の立ったそれは、これまでタルスが馳走になったどんな食事よりも美味に感じられた。
鎖帷子の代わりに、老婆の亡夫の貫頭衣を纏ったタルスは先を促した。老婆は足も目も悪く、小屋の中を動くのにも難儀していたが、タルスに芋の澱粉を練って焼いた主食を供してくれた。それを頬張りながら、話の続きに耳を傾ける。
老婆が若い頃、邑には三百人程の輩が暮らしていた。邑の外縁に拡がる焼き畑も、当時は農作業の邑人で賑わっていたという。つましいながらも人々は、協力しあって生きていたのだ。
そんなある日の晩、邑を人豹が襲った。悪霊の仕業である。森に棲む精霊のうち、人間に仇なす類いを悪霊という。
悪霊は実体を持たないため、それ自体では人間に影響を及ぼすことは出来ない。しかし人間に取り憑いて、その人間を変容させてしまう。こうして醜い獣の姿をした人豹が生まれる。そしてひと度憑かれたならば死ぬまで二度と人間に戻ることはない。言い伝えでは百年に渡って殺戮を続けた人豹さえいるのだという。
邑を襲った人豹は、手始めに老婆の息子を引き裂いた。次に娘を呑み、夫を、父母を、兄弟を餌食にした。範囲は拡がり、邑人がひとり、またひとりと喰われていった。一時にではなく、日毎夜毎にひとりずつ。歳も性別も財産も容姿も関係なく、まさに死そのもののように、邑人は斃れていった。
抵抗した邑人もいた。邑を飛び出した者も。しかし殆ど宿命のようなそれから逃れることは誰も出来なかった。邑から離れても森の中をぐるぐると歩き回る羽目に陥り、いつの間にかまた戻ってきてしまうのだ。そうして、小屋の中で、広場で、水汲み場で、木の上で、畑の傍で、皆、死んでいった。
最後に残ったのは、老婆だけだった。しかし殺戮は唐突に止み、いつまで経っても、老婆の元に人豹は現れなかった。そして、五十年が経ったのだった。尤も老婆の述懐は、時間も登場人物も前後し、過去の話なのか近来の話か区別が出来ない。老婆の中で時間は凍り、五十年という隔たりと、家族や邑人がつい昨日まで生きていたような感覚とが矛盾なく同居しているようなのだった。
「じゃが、それも仕舞いじゃーー」
老婆は断言する。というのも、彼女の家は邑で只ひとつ祈祷師の血を受け継ぐ一統で、老婆は此の五十年の間、水占いや骨占いを何度も何度も繰り返し、ついに再び人豹とまみえる星辰を導きだしたのだった。それが翼蛇の年、黄銅月の廿日、すなわち今宵だと云うのだ。しかも復讐は人間でない者の手によって果たされると云う。確かにタルスは人間ではなく、ルルドとモーアキンの間の子で、手足の短さの代わりに筋骨逞しく、体術の心得もないではない。老婆にしてみれば、繰り返し出た卦の成就する刻と信じても不思議はなかった。
2、
夜が更けても雨は沛然と降り続き、密林を叩くのを止めなかった。老婆の小屋の屋根は、奇妙な律動を刻む鼓のような絶え間ない音を奏でていた。戸口辺りに胡座をかいて不寝番をするタルスの耳には、奥にいるはずの老婆の寝息は掻き消されていた。
暗闇の中、ただ囲炉裏の燠だけが仄かに朱く灯っていた。立ち昇る焦げた臭いが、煙出しの孔に吸い出されていくのが感じられた。タルスは燠をじっと見つめてその刻を待った……。
……。
……。
ガクンと頭が下がって、睡魔に負けていた自分に気づいた。小屋の中を見回すが、変化はない。燠は完全に消えていたが、雨音は相変わらずである。
いやーー。
うっそりとタルスは立ち上がり、目を凝らした。
老婆の姿が見えなくなっていた。
敵襲を見逃した? しかし、だとしても何処から侵入したと云うのだ?
そのとき、不意に小屋の屋根が軋んだ。雨滴などとは比べ物にならない重量がかかったのは明らかだった。タルスは天井を見上げて身構え、気息を整えた。胸板や腕が反応し、内側から膨れ上がったようになった。
それは北大陸で身につけたヴェンダーヤの苦行僧の修法で、呼吸法と組み合わせることで、肉体を強靭な凶器に変えることが出来る邪行である。
メキメキっとさらに屋根が軋み、ついに抜けて落ちてきた。どっと雨が吹き込み、みる間に小屋じゅうを水浸しにしたが、無論、落ちてきたの水だけではなかった。冥く、判然としないが、明らかにタルスを上回る量感の影が、小屋に着地したのだ。
咄嗟に防御の態勢を取っていたのが幸いした。闇を衝いて、大槌で殴られたような一撃がタルスを見舞った。受け止めた躰ごと、壁を破って屋外へ弾き飛ばされた。広場の泥濘に、背面から墜ちた。
まるで瀑布に放り込まれたようだった。落ちかかる水のあまりの量に、危うく溺れそうになる。しかし泥まみれになりながらもタルスは、抜け目なく横に転がった。案の定、タルスの落下地点には巨大な影が殺到したようだった。
それを見計らっていたタルスは、跳ね起きるなり、自分のいた場所めがけて、体当たりを食らわせんと突進した。
ーー!?
タルスの躰は虚空を駆け抜け、たたらを踏んだ。と同時に、意想外の角度から攻撃がもたらされた。敵は上空から降り来たって、タルスの延髄に牙を突き立てたのだ!
驚くべき跳躍によって、上方に身を躱した人豹が、剥き出しの急所を狙いすましたのだった。その凄まじい咬合力によって、さしものタルスも化物の好餌になるかと思われた。
がーー。
今度は相手が驚愕する番であった。
己れの尖頭歯が噛み千切れない肉があるなどとは、俄には信じられなかったであろう。ガチガチと口を閉じても牙は、弾力と硬さを兼ね備えた肉を喰い破れないのだった。その僅かな動揺をタルスは逃さなかった。たちまち怪物の顎から頸を外すと、素早く躰を入れ換え、人豹の背後に廻って組み付いた。
ヴェンダーヤの行のひとつに、須臾の間だけ肉体の一部を、弾性を持つ樹脂の如く変ずる術があり、それによりタルスは命拾いしたのだ。
人豹は、背中に取り付いたタルスを剥がそうと闇雲に暴れまくった。地を駆け、小屋に激突し、飛び上がって背面から落下までした。しかしタルスも必死でしがみついた。相手は暗夜でも目が利いており、離されてしまえば二度と掴まえられないだろう。
その、名高いヒルガド高原の悍馬もかくやとばかりの狂乱のさなかにあってタルスは、反撃を敢行しつつあった。躰中の力を両の腕に集めていた。筋肉がさらに盛り上がり、太い縄のような筋が現れた。万力のような腕は、容赦なく怪物の頸を締め上げていった。
タルスの企てに気づいて怪物はよりいっそう暴れ、振り落とそうと踠いた。それはまさに二頭の獣による、生存を掛けた死闘だった。
やがて永劫まで続くかと思われた闘争にも、終りが訪れた。怪物の動きは次第に鈍り、足取りから軽やかさが消え、地を摺るようなそれに取って代わられた。そしてついに、怪物は立ち止まり、泥濘に膝を屈した。
変化はそれ以前から起きていた。
怪物の力が弱まるにつれ、タルスを圧していた体格はみるみる萎んでいったのだった。彼の者の脚が完全に止まったとき、すでにその姿は本来の人間のそれに戻っていた。まだくいしばった歯の隙間から獣の唸り声は洩れ、両手には鉤爪が伸びてはいたが、それでもその姿は、あの老婆のものに間違いはなかった。
タルスはとうに人豹の正体に気づいていた。畑には食物を耕した形跡はないのに、芋の澱粉があった。干し魚のスープも、老婆が他の邑人と違い、外の世界と行き来できる証拠である。老婆の眼は衰え、脚は萎え、到底、独りで生きるに必要なものも揃えられそうにない。にも拘らず、老婆はこの邑で五十年以上、暮らしたという。
ただそれは、老婆の主張する如く悪霊の仕業であったと思われる。おそらく老婆は、人豹になっている間の意識はあるまい。老婆の記憶が曖昧なのは、人豹でいる時間の方がもはや常態であったからではあるまいか。
しかしそれでもなお老婆は恐ろしい疑念に憑かれていたことだろう。というより無意識では人豹の正体を知っていたのだ。だからこそタルスに人豹退治をこいねがったのだ。
重なった二人を、雨が執拗に打ち続ける。
タルスは恩誼に報いないわけにはいかなかった。両腕に力を籠め、ひと息に老婆を縊り、確実に骨を折ったのだった。
*
悪霊が老婆から去ると、卒然と雨も去った。おそらく、密林からも容易に脱出できるようになっていることだろう。夜が明けたら出発するのだ。
タルスは老婆の亡骸を抱き上げ、彼女の小屋へと運んでいった。
(了)