海神の末裔(二)
4、
建造物のことをシスたちは〈王宮〉と呼び習わしているようだった。
しかし〈王宮〉とは、云いも云ったり、建っているのが不思議な有り様の代物であった。屋根は落ち、壁の石積の多くは倒壊してとうに風化している。それでも幾つかの室房はまだ健在で、三人はその一郭に陣どって、干し肉と、固く焼締めたパンと、葡萄酒の夕餉をとった。
急拵えの竈で薪を燃やし暖を求めたが、潮臭い湿気が夜風とともに忍び寄り、底寒さを拭い去ることは出来なかった。頼りない竈火の光が、原型を留める壁龕に影を揺らしているが、その装飾は見たこともない様式のもので、〈王宮〉が想像も出来ないくらい永い年月を閲しているのをまざまざと思い起こさせるのだった。
「シス、それは?」
ヴェリタスが指したのは、シスの華奢な腕にはめられた銀の細い腕輪で、血のような紅い石が象嵌されたそれは、絡み合う蔓草にとまった蝗を象ったものだった。
「これ? へへっ、アスカランテが寄越した贈り物さ」
「莫迦っ! 残らず置いてこいっていったろう」
「だって気に入ってたんだものーー」
シスが唇を尖らす。それは其方の気のない筈のタルスですら、ドキリとするような愛嬌のある仕草だった。
しかし恋人たちのやり取りは、他愛ない痴話喧嘩ですむ領分ではなかった。ヴェリタスが腕輪に触れると驚くべきことが起こった。
ギィ……という哭き声が何処からともなく沸いて出た。
「きゃあ!」
シスが、日ごろの高慢さも台無しの可愛らしい悲鳴をあげた。タルスもヴェリタスもギョッとして見守ってしまった。
三人の目の前で、ただの金属である筈の腕輪の蝗が、ゆっくりと翅を開いた。鈍い光沢を帯びていた蝗は、みる間に生々しい、生物のそれに成り変わった。紅い石が昆虫の複眼になって煌めいた。そして再び、ギィ……とひと哭きすると、羽音も高く飛び上がったのだ。
「掴まえろ!」
タルスは叫んだが遅かった。飛蝗は嘲弄するように天井付近を一周すると、物凄い速度で戸口を抜け、外に出ていった。
「クソッ! 不味いぞ」
追いかけても無駄だと悟ったタルスが毒づくと、シスが不安そうな目を向ける。
「ねえ、どいうこと?」
タルスは苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「あれは魔術の仕業だ。よく呪い師が失せ物探しをするだろう? その類いに、予め大事な物に術を掛けておいて、その物の居場所を知れるように出来る術がある。おそらくあれは、術を仕掛けた主の元に戻ったに違いない。この島に居ることを知られてしまうぞ」
「アスカランテか!」
ヴェリタスが勢い込んで云う。
「ああ。間違いなく、やって来る」
僅かな灯りでも、二人が青褪める様がまざまざと伝わってきた。
「どうしよう……」
半ば泣きそうな声でシスが呟く。
「〈儀式〉が終わるまで間に合わないかも」
「〈儀式〉?」
タルスが聞き咎めた。
「私たちはこの島でやらなければならないことがあるのです。どうやらーー」
ヴェリタスは強ばった顔をタルスに向けた。その表情は悲愴に満ちていた。
「もう一度、貴方に助力を請わねばならないようだ」
「待て待て、話が見えん」
タルスは慌てて云う。
「船があるんだ。逃げれば、よかろう?」
しかしシスとヴェリタスは憂い顔で、互いを見合わせた。タルスは、波止場での出来事を持ち出した。
「そうだ。シスは? あんたのあの詠は? 魔術だか何だか知らないが、何人やって来ようとも関係ないんだろう? あの、還りたい、という奴は」
今度は、シスが声を挙げる番だった。
「あんた、あれの中身が判ったのかい?」
「そうだが……」
タルスは焦れた。今はそこが問題ではない。
魔法使いたちの広言を信ずるならば、彼らの使う言語は、古に、数多くの異種族が使用していた上古語の末裔なのだという。そしてその上古語の単語の中には、あまねく種族の言語に取り入れられていたものも存在する。タルスは、ほんの僅かばかり、その「共通語」を知っているにすぎない。
「今まで、意味を理解出来た人間はいなかったんだよ」
「俺は、人間じゃない。南大陸では、異種族は珍しいのか? 魔法使いだっているだろう?」
「南方世界には、呪い師はいますが、北大陸のように上古語を使う正統な魔術師はほとんどいません。それに、異種族は五百年この方、もうほとんど見掛けられていないのです」
ヴェリタスが付け加える。
「だからこそ、シスは特異なのです。彼はーージンガリアの古の民の血を引く、最後の一人なのです……」
*
旅装の厚手の長マントで剛軀をくるんでいても、硬い石床の冷たさが深々と染み入ってくる。夜明けとともに、迫り来るアスカランテへの対処を考えねばならない。タルスはいっそうきつく躰をこごめ、眠りの国へ戻ろうとした。
閑な闇の片隅から、くぐもった情熱的なやり取りが聞こえてきていたが、若い二人が草敷きの褥で睦合うのを咎めるほど野暮ではないつもりだった。
「欲しい……ヴェリ……嗚呼!」
シスの淫声は、洩れないように忍んでいるため、より胸騒がせる妖しさであったが、また一方では、男娼の手練手管とは違う直截さが感じられ、驕慢な態度の奥に潜むか弱さやヴェリタスへの愛情深さを窺わせた。ヴェリタスも、慈しみつつも激しく応じていて、昂る声を抑えかねているようだった。
律動を刻む二人の営みは、不思議とタルスを逆に穏やかな心持ちに誘った。北大陸での変転ーー幼い時分からの放浪や、出逢いと別れや、南大陸にやって来る直接の契機となった彼の執政殿との対決がつらつらと浮かんでは消えた。二人が果てて互いを強く抱き締め合う頃、タルスは気づかぬうちに眠りへと落ちていった。
5、
そこからの眺めは丁度、城郭の胸壁の上に立つのに似ていた。強い海風になぶられながら眼下に拡がる蒼海をすがめるが、船影はおろか、海鳥の姿すらない。
島の外縁に歪な円環を描いて連なる断崖は、まさに城壁の如く侵入者を阻んでいるが、南西のその一郭にはよく見れば、断崖に、海に向かって降りるつづら折りの杣道が貼り付いているのだった。杣道を降りきった場所は小さな入り江になっていて、船を着けることが出来る。
では何故、昨日は、危険な洞窟を潜り抜けたのだろう。タルスはいぶかしんだ。まるでその胸の裡を察したようにヴェリタスが話題に出してきた。
「私たちがやって来た洞窟は、〈王宮〉を挟んだ島の反対側にあります。しかし、あの洞穴は今は使えない」
強風で、声を張り上げないと聞き取りづらかった。タルスも大声で返した。
「と云うと?」
「アスカランテが島に着くのは、おそらく三日後の晩。この島は日ごとの潮位差がかなりあって、その頃にはあの洞穴はすっかり水の下になります。その場合、彼奴らの上陸する箇所はここにならざるを得なくなる、という訳です」
「そして、この道を登ってくるーーか」
足下の杣道を眺めながらタルスは、頭を廻らした。
アスカランテがどれ程の権力を持つのかは知らないが、ことの性質からいって正規軍を大っぴらに動員するとは思えなかった。精々が一、二分隊。人数だと二十人に満たないくらいだろう。勿論、たった三人に対しては充分すぎる人数である。どころか、ヴェリタスの依頼と来たら、タルス一人で追手たちを丸々一晩、つまり四日後の夜明けまで留めておいて欲しいという無茶なものであった。
彼らの云う〈儀式〉には、三日三晩という時間がどうしても必要で、その間は何人足りとも邪魔が入っては困るというのだった。勿論、中途で抜け出すこともかなわない。シスの詠が使えないのはそういう訳だった。
一旦、退いて身を隠し、再び島にやって来てはとタルスは条理を説いたが二人は頑なだった。その〈儀式〉は星辰が定まった刻に従って行われねばならず、もはや島を離れるのもかなわないという。
二人の口吻は真剣そのものであり、自らの身命を賭しているのは間違いなかった。そして、どうにも曖昧な仄めかしに終始しているのだが、その〈儀式〉とやらが、かつてレンス海の覇者であった、彼のジンガリアに纏わる事々であるらしいのも確かなのだった。
というのも、彼らがタルスに報酬として差し出した品物は、色とりどりの珊瑚と、信じられないくらい大粒の真珠とで出来た、凡そ人間の手に成るとは思われない宝冠だったからである。或いは、案外、アスカランテの目当ては、この古代国家の財宝にあるのかもしれない。
とまれ、タルスの取れる選択はほとんどない。此れからの旅路をかんがみればーー万が一、この危機を生き延びられるとしてーー報酬は喉から手が出るほど欲しいものであった。また、先だって手下の者を鏖殺されたアスカランテからすれば、タルスを容赦するとは思えなかった。さらに、例え二人を裏切ったとしても、タルス一人で帆船を操って再びレンス海に戻れるかどうか怪しい。つまり、どのみち闘わなければ道は拓けないのだ。
「武器でも何でもいい、備えになるものはあるのか?」
ヴェリタスの答えは、色好いものではなかった。
「残念ながら、ほとんど……」
彼自身の舶刀の他は、これといった装備はないという。タルスは自嘲気味に嗤った。タルスは戦士であって、機略縦横の軍師ではない。起死回生の妙計など、都合良く降って湧いたりはしないのだ。タルスは考え考え、ヴェリタスに確かめる。
「ーー思いつく防衛線は、三つだ。先ずは此処。崖道を登ってくる敵を迎え撃つ。次がーー」
と、タルスは島の内側を見遣って、
「〈王宮〉を含んだ島域全体。最後が洞窟の入り口。俺が面倒を見れるのは精々そこまでだ。穴の中は手に負えないだろう」
ヴェリタスたちの〈儀式〉は、あの洞窟で行われるのだという。内部の無数に枝分かれした道のどれかが秘密の場所に通じていて、そこで三日に渡り続くらしい。何れにしてもタルスがその場に居合わせることはないし、今から洞窟内部を駆使した戦術を編み出すのも現実的ではなかった。タルスの決戦は、その前に終わるだろう。
「それで具体的にだが……」
タルスが苦肉の策を伝えると、ヴェリタスは思案顔になった。やがて長考の末、渋々同意したのだった。
6、
水平線に船影が現れたのは、ヴェリタスが予見した通り、三日後の夕刻のことであった。〈鳥影丸〉より少し大きい戦船が二艘、夕陽を浴びながら島を目指してやって来た。艫に掲げられた船艇旗に、〈聖なる金糸の魚〉が翻っている。
タルスは、南西の崖の上にへばりつくように伏せて、待ち構えていた。こちらも読みは当たり、敵の総勢は二十名ほどと思われた。
ーー敵は、夜襲をするはずです。
とヴェリタスは洞窟に籠る前に述べていた。アスカランテの横紙破りを、リューリクの最高議決機関たる商人評議会は苦々しく見つめていて、故なく軍団を動かしたと知られれば、ダルファル本国に訴え出られるかもしれない。さしものアスカランテもそれは避けたい訳で、日が上るのを待つなどという悠長な作戦はあり得ない。拙速に事を進めようとする、とはヴェリタスの言であった。
果たせるかな、残照が消えかかっている時分には、尖兵が崖の杣道を登り始めたのだった。小さな松明が掲げられ、縦列に登ってくる。彼奴らにまだ警戒心は薄く、まるで蜜に群がる兵隊蟻を眺めている気分だった。しかし蟻は、一匹一匹は弱くとも、集団になると自分たちより大きな昆虫も襲い、補食してしまう。況してやダルファル兵がそれなりの手練であるのは経験済みである。タルスは自分が餌にならないことを祈った。兵士たちが、正式な軍団兵の装備ではなく簡易兵装であるのが、僅かな救いであった。
最初に崖の上に手を掛けた兵士は、不運であった。ヒョイと頭を出した途端、タルスの勢いを乗せた前蹴りで顔面を潰され、悲鳴を挙げる暇もあらば、真っ逆さまに落ちていったのだった。
すかさずタルスは、三日かけて崖上に用意しておいた大岩の一つに取り掛かった。両手と肩を当て、気息を整える。満身の力を込め大岩を押した。
たちまち太縄のような筋肉が、全身に盛り上がった。呼吸法との合一によって、躰中の力を一点に集中させるヴェンダーヤの行が爆発的な突進力を生み出した。一抱えほどもある大岩が、みるみる横滑りし、崖下めがけて転げ落ちた。
下方から岩が当たる鈍い音と、泡を食った叫びが聞こえた。やがて派手な水音がたった。覗き込むと、大岩が敵船の一艘に直撃したようだった。溺れ掛けた兵士と、それを助けようとする仲間で大混乱に陥っている。
「番神トトよ!」
僥倖に感謝を捧げる間もあらば、タルスは次の岩に挑んだ。その次も。
時機を見計らいながら、都合五つの大岩と無数のそれより小さな石を落とした。やがて相手方もだいぶ警戒して、庇状に張り出した岩棚の下に潜み、まったく出てこなくなった。日がとっぷりと暮れて、宵闇に包まれてもいた。東の空には月が出ていた。手持ちの石がなくなったのを潮に、タルスは後退することにした。
半数、とまではいかないだろうが、幾らかは敵勢を減らすことに成功した。その中にアスカランテが含まれてくれていれば、襲撃自体が沙汰止みになるかもしれない。淡い期待だが、懐いて悪いことはあるまい。
*
しかし、番神の加護もそこまでだった。
島の内側の所定の位置に隠れていると、崖を越えてきた攻め手が侵入してきた。その数、およそ十名余り。松明に兜と鎖帷子が煌めき、全員が、刃幅が広く短い刀身の剣を、油断なく構えている。盾こそないが、白兵戦に長けたダルファル兵たちは皆、鋭い剣技の持ち主と思われた。
実はすでに二人が戦闘不能に陥っていた。崖の内側に出る一本道の降り口周辺に、半円形に穽を掘っておいたのだ。散開した兵士のうち、一人は完全に落ちてしまい、もう一人は足を痛めたようだった。
ただ間の悪いことに、雲が風で千切れ、皓々たる明月が島全体を照らし出した。兵士たちもより慎重に歩を進めるようになり、残りの穽は不発に終わりそうだった。
タルスは壁づたいに、ジリジリと〈王宮〉を目指した。遠廻りになるが、もたついているダルファル兵の先手を取るのはわけないと思った。
それが油断だった。
松明を離れ、暗闇に目を慣らした気の利いたる兵士が、先行して動いていた。そしてまんまとタルスを視界に捉えたのだった。
そいつは、余分なことは何もせず、真っ直ぐタルスに斬り掛かって来た。闘いの物音は自ずと判別出来るゆえ、仲間に声を掛けるなどという無駄を省いたのだった。
辛うじて避けられたのは、軍装の立てる金属音を先だって捉えていたからだ。風で流れた音が一足早くタルスに危機を教えた。横に飛び退き、距離感の掴めぬまま、低い体勢で足払いを食らわせた。命中した。
もんどりうって倒れた対手をタルスは、力一杯、踏みつけた。グエッという兵士の呻きが洩れた。鎖帷子越しに、肋骨がいったのを感じた。
が、わざわざ息の根を止めるようなことも、仲間を迎え撃つようなこともしなかった。踵を返すと、素早くその場を離脱した。
彼奴らの目的は、シスの身柄を確保することであって殲滅ではない。邪魔されれば排除もしようが、追いかけてまで血眼になるとは思えなかった。一方、こちらも相手を足止めするのが狙いなので、いちいち決戦を挑むつもりはなかった。
敵勢の本隊は、すぐさま戦法を変えた。斥候を呼び集め、密集陣形を取った。そして一塊となって悠々と〈王宮〉を目指しだした。
どうやら此方が単身であると知れてしまったようだった。リューリクから遁走した面々は三名。うちシスが戦闘に役立つとは考えていまい。後はタルスとヴェリタスだが、陸戦のやり口からヴェリタスの気配を感じなかったのだろう。相手が一人なら、バラバラにならなければ、恐れるに足らず、という訳だ。
本隊を横目に見ながら、タルスもまた〈王宮〉方面へと進んだ。