小沢健二「さよならなんて云えないよ」と、「美しさ」について――
まず、なぜ「言う」ではなく「云う」なのか、それは極めて単純な理由だ。ただ抽象的に論じている訳ではなく、云うの語源、「伝える」からきているのだ。本来、さよならなんて「伝えないよ」なのだが、ここで刮目すべき点は、ではなぜ「伝えないよ」にしなかったということだ。
伝えないよという言葉は、明確な意志を持っている。しかし、云えないよはどうだろう? ただ伝えている訳ではなく、言いたくないけれど、仕方がないようなイメージを想起させる気が、私はするのだ。
そして、これから論じる歌詞が、まさに、この曲名そのもの、つまり、さよならなんて「云えないよ」でなければならない理由に繫がる。
「さよならなんて云えないよ」の濫觴、ご周知の通り、Michael Jacksonの「Black Or White」のオマージュからはじまる。正しくはオマージュではない。パロディにより近いオマージュである。
歌い出し、「青い空が輝く」、まったくもってださいったらありゃしない。まるで、小学校の、「朝の歌う時間」だ。しかし、このことが、東京大学文学部卒業という小沢健二の頭の良さを如実に表わしている。
つまり、小沢健二は、黒人、白人しか、音楽の才能はなく、黄色人種などはなから相手にさえされていないということを、Michael Jacksonの「Black Or White」の最初の、「ギューン!」というギターのソフィスティケートされた音とともにはじまる、リズムに乗った気持ちがいい音ではなく、あえて、鉄琴の下、ギターの音が埋もれたような音の後、乱雑かつ稚拙な音で真似てみせ、はじめのださい、「青い空が輝く」という歌詞で、所詮日本語は音に乗らないんだからと、的確に自己批評性を含みながら我々に教示することに成功している。
そして、この歌詞には、もうひとつの意味を含んでいる。
Base Ball Bearというバンドのボーカル、小出祐介がTwitterで書いていたことを引用し、説明させて頂く。
〈小沢健二さんの「さよならなんて云えないよ」で、MJの「Black Or White」のリフがそのまんま使われているけど、この曲のテーマを考えてみると、すごく深い引用なんじゃないかと思える。世界が白か黒かだと分りながらも、「僕は何度も何度も考えてみる」んじゃないかと。〉
Twitterにもかかわらず、歌詞のようなレイアウトになっている小出祐介の音楽家としてのセンスはさておいて、本題の、「黒」か「白」だとわかりながらもという部分に注目して頂きたい。
つまり、この黒と白が何を意味するかということだ。私が考えるに、これは、「別れるか、別れないか」のふたつを意味している。「別れるか別れないか」のふたつしかないとわかってはいるのに、そうは思いたくない心の機微。私はそんな気がするのだ。
そして、この曲最後の、「僕は何度も何度も考えてみる」に繫がる。
なぜ「考えている」ではなく、「考えてみる」なのか。「いる」だと、自分の意志を持って考えることになってしまう。だから、強がりも含んだ、もう既に別れてしまったけれど、忘れたくない心を、「みる」というすこしの違いで表しているのだと、私は考えている。
青い空が輝く太陽と海のあいだとはどんな間だろう。私は、先に、この歌詞で、「人生を今から歌うぞ」と、宣言しているように感じる。青い空が輝く太陽と海のあいだ、どんなにうつくしくて、かなしくて、かがやかしいのか、私にはわかる。
“オッケーよ"なんて強がりばかりの君を見ているよは、先程の歌詞に呼応するように、端的かつ、ユーモラスな歌詞だ。それがあまりにも複雑な感情として心に淀みなく入ってくるから、すこしだけこわかったりするが。
“オッケーよ”と強く歌う。強がりばかりの君は、別れが寂しくないんだと、優しさと強がりを表現している。
便宜上、嫌になるほど続く教会通りの坂降りて行くについて先に論じさせて頂く。さっきまで、サクソフォーンの響く教会通りの坂降りながらと軽やかに歌っていたのが噓のようだ。サクソフォーンの響く音が、嫌であることがわかる。これは、何度もいうが、「忘れかけているけれど、忘れたくはない」「別れたくはないけれど、別れなければいけない」という心の現れと断言していい。
美しさ oh baby ポケットの中で魔法をかけて。「強がりを優しさに変えて」心から oh baby 優しさだけが溢れてくるね。ポケット、つまり、自分の心の奥の見えないところで強がりを、優しさに変える。
そして、「くだらないことばっかみんな喋りあい」という歌詞。
この歌詞、「美しさ」においては、「くだらないことばかりを喋りたい」に変わっている。
では、なぜ変えたのだろうか。「ばっかみんな」という視点は、あくまで、客観的だ。しかし、「ことばかりを」は主観的である。
要するに、さよならなんて云えないよでは、リズムや軽い歌い方含め、すこし小沢健二自身が冷めているような印象を受ける。
しかし、美しさでは、君の優しい強がりではなく、「ばかり」と重く歌い、「喋りたい」と断言するように歌う。あくまでこの問題は、みんなではなく、自分のものだといわんばかりに。
そして、さよならなんて云えないよでは、坂降りて行くだが、美しさでは、「坂降りながら」にかわっている。「サクソフォーンの 響く教会通りの坂降りながら」と同じである。やはり、惜別や、そのことに対する後悔があるのだ。
「ながら」。
まるで、自分の意志ではないかのように。
日なたで眠る猫が 背中丸めて並ぶよ、もう、わかっているけれど、受け入れられないという意味だろう。日なたは、希望や、移り変わった心を表し、"オッケーよ"なんて強がりばかりを僕も言う、ではなく、「言いながら」。
まだ、別れや、忘れかけていることを、完全には受け入れられない。「本当は思ってる 心にいつか安らぐ時は来るか?と」がそれを著しく表す。
ここらで、美しさや優しさが、自分のものになり、嫌になるほど誰かを知ることはもう2度と無い気がしてると、はっきりする。
なぜ小沢健二が、「さよならなんて云えないよ」を、「美しさ」として歌ったのか、ここの歌詞ですこし明らかになる。
「美しさ」では、またも、「くだらないことばかりを喋りたい」に変わっている。その後の、嫌になるほど誰かを知ることはもう2度と無い気がしてる、もうこの問題は、自分のものであると、はっきり断言しているのだ。
この辺の歌詞は、説明する必要もないほど、優れている。そして、論じること自体、無粋な歌詞だ。と書くと、怠慢のような気がするから、一応論じてみる。
「さよならなんて云えないよ」では、軽々しく、テンポに合った歌い方だが、「美しさ」では特に、「いつまでも」の「も」が、力強く、伸びやかに歌われている。
つまり、「美しさ」においては、「僕は思う! この瞬間は続くと!」と、感嘆符が必要のないくらい、強い意志が存在するのだ。
左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる、この歌詞には問答無用で、感嘆してしまう。
あくまで、右ではない、がしかし、離れ離れになるということでもない。なぜなら、その後に、光る海が見えてくるからである。
もう、「忘れかけていた」や、「別れなければいけない」ことに対して、思い切って、左へカーブを曲がったのである。しかし、そこは光る海。光る海が、まだ忘れなくてもいい、離れなくてもいいと、自らの思いを肯定してくれるのだ。
この歌詞を論じる上で、どうしても外せない人物がひとりいる。タモリである。タモリは、「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも。この歌詞すごいね」と言った。そしてタモリは、この歌詞を、「生命の最大の肯定」と言い切り、しきりに驚きながら、「人間の能力で一番凄いことは複雑なものを簡単にポッと出すことなんだよね」と小沢健二を絶賛する。
そして、16年ぶりにテレビ出演した、2014年の「笑っていいとも」で、小沢健二はこのことについて、「あそこは、タモリさんに、その左へカーブを曲がるとって、さっき歌ったところを、あのー、あの、なんていうのかな、もうほんとに本質をパシッと摑んでて、やっぱりほんと、歌詞って面白いし」と言葉を必死に心の中から取り出してこようとしながら言い、タモリがそれに対し、「面白いね、特に面白い――」と言って、小沢健二が照れながら、「いやぁ……ありがとうございますほんと光栄です」と頭を下げていたのが印象深い。
ここも、まったく歌詞の通りで、論じる必要性がない、が、補足するなら、「心」とは、再三書くが、「忘れかけているけれど、忘れたくない」ことや、「別れなければいけないけれど、別れたくない」ことだ。
音的には、美しさの、"オッケーよ"が、さよならなんて云えないよの"オッケーよ"より、力強く、強調的に歌われている。
この後、美しさの方が、さよならなんて云えないよより、先程の"オッケーよ"とは反対に、oh babyが弱々しく歌われている。
さよならなんて云えないよの、oh babyは、優しさを含んだ強がり。
美しさのoh babyは、かなしさを含んだ強がり。
「みんな」とは、美しさにおいては、「町を出て行く君」。追いつくように手を振りながら、もう、別れてしまった。「別れてしまったけれど、忘れたくない」歌詞だ。
最後のoh baby。美しさでは、音に合わせるように、はめ込むように歌っている、でも、完全には交わらない。この表現、高い山まであっというま吹き上がるという歌詞に、もう「静かに心は離れてゆくと」、長い時間、君と過ごした時間、その記憶は消えてしまうと受け入れながら、心の揺らぎ、忘れかけているけれど、忘れたくない心を、抱きしめるのか? と、自らに問いかけていると、切に歌われている、そんな気がしてならないのだ。
先程の、「南風を待ってる」と、「北風の中 僕は何度も何度も考えてみる」という歌詞は、密に絡み合っている。
「南風」、「北風」は何を意味するのか。
南という方角は、北の反対、つまり、希望がやってくる方角、反対に北という方角は、否応なしに死を連想させる。
もう、「心」は、死んでいる状態なのだ。
それでも、「考えてみる」。
吹き上がる北風の中、僕は何度も何度も、忘れないようにと、「考えてみる」。
この歌詞で最も注目して欲しいのは、最後の「考えてみる」だ。
はじめに書いたことだが、「伝えないよ」ではなく、「云えないよ」でなければならない理由、この歌詞を読むだけで理解できると、私は思うのだ。
美しさは、歌詞が音にはまっている、という書き方は正しくなく、完全に一致し、絡み合っている。
しかし、先程論じたように、ところどころ、言葉が、音より先に口からこぼれることがある。最後の考えてみるは特に、おもいが先走るあまり、音より先に、「る」と歌ってしまっている。しまっているが、それが美しさの歌詞全体に呼応し、居心地の悪さが、「忘れかけているけれど、忘れたくない」気持ちや、「別れたくないけれど、別れなければいけない」気持ちを、淀みのない感情で訴えている。
考えて「いる」、「伝えている」は強い意志を持った言葉。
考えて「みる」、「云えないよ」は、「忘れかけているけれど、忘れたくない心や、別れなければいけないけれど、別れたくない心」。もう別れたことを、忘れかけているけれど、絶対に忘れず、心の中に留めたいという、自己矛盾なのではないだろうか。
濫觴で、曲名が、「さよならなんて云えないよ」でなければならない理由を論じた。
となると、当然、なぜ、小沢健二は、「さよならなんて云えないよ」から、「美しさ」に曲名を変えたのかという疑問が生じる。
「美しさを oh baby ポケットの中で魔法をかけて」
この歌詞を読めば、なぜ曲名を変えたのかがわかる。
「さよならなんて云えないよ」は、忘れかけているけれど、忘れたくない、別れなければいけないけれど、別れたくないと、言葉を心の中から取り出し、反芻する。
しかし、「美しさ」では、ポケットの中で魔法をかける。
この違いが意味するのは、「さよならなんて云えないよ」では、あくまで自分の内部に心を残しているが、「美しさ」では、そうではない。
「美しさ」は、これから否応なしに向き合わなければならない現実との、ある種の折り合いに近い。もし、この別れと同じような体験をしたら、また「みんな」や「君」のことを思い出すけれど、その心は、あくまではじめて抱いた、澄み切ったものではない。それでも、曲名を変えた小沢健二は、絶対に忘れたくないと思ったのである。
「美しさ」は、「ある光」に収録されている。1997年12月10日、シングル発表。小沢健二が1998年に活動休止する、すこし前のことである。それから小沢健二は、2017年までシングルを発表しない。
このときの小沢健二が、「ある光」をテレビで歌う映像を観た。いつも小沢健二は、いかにもな笑顔で歌う。しかし、このときの小沢健二は、辛そう、というより、辛いのだろう。
その辛さの真相を完全に理解できる人間など、この世にはいない。しかし、このとき、「さよならなんて云えないよ」を「美しさ」として歌ったことは、その後の日本の音楽シーンに大きな影響を与えることになる。
そもそも、アルファベットと日本語では数が違いすぎる。しかもBlack Or WhiteのMVはスタイリッシュで、さよならなんて云えないよのMVはただの日々、日常を撮っている。
しかし、彼は「美しさ」を歌ってくれた。
人の別れに思いを巡らせるとき、「さよならなんて云えないよ」を聴き、既に忘れかけているけれど、忘れたくない、別れたくないけれど、別れなければいけないと感じるとき、私は、「美しさ」を聴いてしまう。
「さよならなんて云えないよ」は、小沢健二の頭の良さと才能の曲。
「美しさ」は、小沢健二の才能の曲。
「さよならなんて云えないよ」は、自虐的に卑下しつつ、しょうがない、といった諦めが見える。でもその中で、日本語は叙情的なのだと暗に示している。もしも彼が、「さよならなんて云えないよ」だけしか歌っていなかったら、我々は帰る家のない孤児のまま、今も地に足をつけず、ふらふらしていた。「美しさ」、ほんとうの心で、小沢健二が、詩に向き合い、叙情性、それが日本、そして日本語の優れた点だと、確固たる意志に導かれ、示した。
この曲を聴く度に、私の遥か先で、大きく、寸分の狂いもない羅針盤を掲げた小沢健二が、
「君と僕の言葉を愛す人がいる」
と、待ってくれているような気になるのだ。
参考
http://j-lyric.net/artist/a0025b2/l002a7e.html
https://twitter.com/base_ball_bear_/status/382053418577055744
『さらば雑司ヶ谷』 樋口 毅宏
http://j-lyric.net/artist/a0025b2/l044ea7.html