四年振りの三社祭
今日、初めて三社祭というものを観に行った、
三社祭は三日をかけて行われる大々的な祭であり、その起源は鎌倉時代末期、14世紀初頭まで遡るという。
私が今日観たのは、近隣から百基近くの神輿が浅草神社に集い、それぞれ神主から一基ずつお祓いを受けるという行事だ。百基近い神輿は、ベースは同じものであるにも関わらず、そしてある程度の制約の中にありながら全てその設えや装飾は異なる。
装飾とは、デザインとは、こんなにも可能性があるものなのか。
私は自分の勉強不足を恥じ、そして目に入る全ての神輿の装飾に魂を奪われた。
更に、場の空気感である。
四年振りの開催は神輿を出して担ぐ人間の鬱憤を晴らし、ひたすら高揚するポジティブなエネルギーが場には充満していた。祭というよりライブといった方が近い。それは正にパンクロックバンドのライブに近い、否、そんなものを遥かに凌駕する熱量を発していた。
短時間で信じられない程の完成された「デザイン」を視覚から脳にブチ込まれた私は、気付いたら人波を掻き分け、神輿が集まっている場所のすぐそばまで来ていた。
「吸い込まれた」
そうとしか言いようがない。
美しさと、陽エネルギーの磁場の中心に向かって体が勝手に動いたのだ。
それは壮観でもあり、荘厳でもあった。
私は神を持たないが、「信仰する」ことが持つ強い力を肌で感じたように思う。
祭りのあと、1時間ほど私の眼は虚ろだったらしい。
それはそうだ。脳内であの美しい神輿達を何度も再生し、分解し、理解しようと試みたいたのだから。
そして、それはこの文章を書いている今も消えていない。神輿の中心部となる神社を模したものの細やかな装飾、色数に制約があるなかで工夫された神輿に巻かれた太縄の個性的な造り。
美し過ぎるものを短時間で過多に観たせいで、今夜はうなされそうだ。
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