依存症について
まぁねー。
あんまりおおっぴらに言うことでもないんで、ここに書きますが。
自分は去年、過労で一度倒れて入院させられまして。
過労で入院って、多分「内科」か「精神科」なんですね。自分は精神科の「ストレスケア」っていうとこにお世話になったわけですが。
で、入院先が精神科の専門病院だったので、外来も病棟も実に細分化されているわけです。そして、その中に当然「依存症」もあるわけで。
ところで、自分は酒飲みかつ喫煙者です。入院中は飲酒はもちろん喫煙も不可です。酒は飲む場所ないし、喫煙所もない。そもそも病棟に酒も煙草も持ち込み禁止。
とはいえ、全部禁止すると、逆に精神衛生上よろしくない、ということは、病院の方々の方がよくわかっていらっしゃるわけで。
んなわけで、喫煙だけは、かなり緩めでした。つか、暗黙の了解で見逃してもらえてた。
暗黙の了解、ということは、黙認された喫煙所というものが存在するわけです。自分もそこで喫煙をしておりました。
で。
不思議なことに、なのか、昨今当たり前なのか、そこに集うのは95%依存症病棟に入院中の方々でした。喫煙率下がってるのわかるわー。でまぁ、日に何度も顔を合わせていると、自然に仲良くなるもので、自分の入ってる病棟より、依存症病棟の方が知り合いが多いという不思議な現象も起きたりして、ですな。
依存症の色んな話を聞きました。
依存症に至るまでまでのきっかけ、生育歴、依存症になってから立ち直ろうとして挫けて再入院することになった話、再入院のときは救急車で運び込まれたけど、自分は何が起きたか全く覚えてないという話、とか。なんとか退院したのに、一ヶ月も経たずに戻って来た若い子とかもいた。
自分は入院するほどではないが、おそらく中度の依存症である、という自覚はある。
依存症の治療とは、自覚することから始まるのだ。なので、自分は今のところ現状維持ができている。この先はわからん。知らん。
それはさておき、入院するほどの依存症というのは、本当に痛切である。見てる側が辛い。離脱症状がないときは、本当にみんな「いい人」なのだ。そして、自分は離脱症状が出ているときのその人たちには遭遇していない。なぜなら、「そういうときはかれらはでてこないから」。
一緒に楽しくキャッチボールとかして、ものすごく健康そうに見えた若者が退院して「帰って来るなよ〜!」とか、刑務所かよ!みたいな別れ文句を送ったのに、一ヶ月も経たないうちに変わり果てた形相で戻ってきたのを見たときの悲しみ。
だが、自分を含む周りの悲しみなど比べものにならないほど、本人の絶望感は深い。数ヶ月、もしかしたら半年近い治療を続け、やっと「普通の生活」が送れる、社会復帰できる、と思っていたのに、ほんの些細なできごとで全てをひっくり返されてしまう。
そう。「ひっくり返される」のだ。「ひっくり返す」のではない。
自我がそうするのではない。
「依存症」という「脳の疾患」が、そう「させる」のだ。
この疾患は、残念なことに「非可逆的」なものなので、依存症を断つにはその対象から一生離れて過ごすことが必要だ。
落語に「芝浜」という演目がある。このサゲが、まさに「依存症」の全てを物語っている。この噺が作られた時代は知らないが、出て来る言葉や風情から、江戸時代か明治初期の作品と思われる。当時、それほど「アルコール依存症」という疾患について知識はなかったと思われるし、そもそも「依存症」という概念すらなかったはずだ。
だが、この噺のサゲでは、酒のせいで全てを失い、心を入れ替えて酒を断ち、見事に立ち直ったダンナにおカミさんが「今日くらいは」と酒を勧めたところ、久しぶりの酒の色艶、香りを一度は楽しんだダンナがふと考えて盃を置いて言う。
「よそう。また夢になっちまうかもしれねぇ」
さて、だらだらと書き連ねましたが、何が言いたいというと
「依存症は一度なったら治らない」
ということです。
対象から離れている「間」は、「完治した」かのように見えますが、一旦対象に触れた途端、急な坂道を転げ落ちるように、廟勢が戻り前後の見境がなくなってしまう。そういう「疾患」なのです。
酒、薬物、ギャンブル。他にも多種依存症の対象はありますが、隔離入院を余儀なくさせるほど重篤になり得る代表的な対象はこの3つでしょう。
「パチンコは許可されてるじゃねーか。なんでカジノに文句つけんだよ」
みたいなことを言う人もいますが、パチンコ・パチスロも数多くの依存症患者を生んでいます。そして、「定期的」に、規制が入ります。
「当たり」確率に規制が入る、国内で認可(黙認か?)されているギャンブルは、パチンコ・パチスロ業界だけです。
宝くじ、競馬、競輪、競艇。こうした「公営ギャンブル」の方が、実はより多くの「ギャンブル依存症」患者を生んでいるのに、規制の手は入りません。「公営」だから。
パチ業界を定期的に規制することで、「ギャンブル依存症対策をしています」という「体」を取っているにすぎない。何故、それに気づかない?
また、パチ業界を「野放し」にして「カジノは規制するのか」という論調を展開する人のなかには「朝鮮利権だ」といった、ある種陰謀論めいたことを撒き散らしている一遇もあるようですが、それをいうならカジノは「アメリカ利権」です。さて、日本はどちらに身売りするのか?アメリカかかつての占領国であった朝鮮か?
自らが迫る踏み絵の正体にも気付かず、歴史という真実すら自分たちの認識の中「だけ」で修正してヒステリーを起こす様は、ある種の「リスク依存症」とも見える。何かが危ない、だから力でそのリスクを排除しなければ。力を以って排除をすれば、自分たちはより強く、優れた存在だと証明できる。
安直だ。しかし、安直だということは「わかりやすい」ということであり「わかる」ということは「安心感」につながる。
「安心感」は「幸福感」「多幸感」を呼び、その「多幸感」を引き起こすのは、依存症のもととなる脳内物質、所謂「脳内麻薬」だ。
書いていて哀しくなってきた。
結局、「カジノ」は賛成派も反対派も、誰も幸せにしない。
そういうことだ。
だから、いらない。
以上。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?