心は行動についてくるし、行動は心についてくる
下書き10件くらいたまっている、、
書きたいことはたくさんあるのに書くのが遅すぎて書く時間が取れない今日この頃です、、
さて、今回は命に感謝をするという意識について話そうかなと思う。
今私が働いている会社は牛を乳牛として働ける2歳ごろまで育てる預託事業と、観光事業を一緒に行っている施設を運営している。
そんな仕事場の仲間たちとのある飲み会で、命に感謝をすることについてふと話題に上がったことがあった。
日本で預託事業など動物を扱う施設には慰霊碑が置かれていることが多く、動物に感謝を伝えるために建てられたもの。
もともと市営の施設だった当施設にも慰霊碑があるが、長年放置されていて最近は誰も手を合わせていないことについて社内で声を上げてくれた子がいた。その子が出勤前に手を合わせないかと言ってくれたことで私たちも入社して初めてその慰霊碑に手を合わせた。
正直、その瞬間に私は人のために亡くなってくれた牛たちへ心の底から感謝の念を送れたかと言うと定かではない。
しかし、『牛さん、いつもありがとう』という気持ちを持って慰霊碑に手を合わせるという行為は、なんだかその後の仕事の身の入りを変えてくれそうなほど良い体験だった。
ほんの数分、命に意識を向けられること。きっとそれだけで意味があることなんだろう、その行為を見た人が、あ、なんか崇高な場所なんだな、と思ってくれたらいい。そういう気持ちや行いってきっと伝染するし、今後動物園に行った際に慰霊碑への意識も生まれやすくなり手を合わせようという気持ちも出てくるだろう。
私は何事においても『意識をする』ということが大事だと思っている。生きる上で何かを思ったとしても行動にできないことなんて多々あって。ああ、あのときこうしてれば良かった。ああしてれば良かった。って思うのだけど。
でも、それはその必要性や価値を意識していなければ思わないこと。
今回、そこに気づかせてくれたことで私は今まで気づかなかったこと、してこなかったことの罪悪感と自分の無知に対する羞恥心を感じたが、それすら一生知らずに生きていくこともできる。そこに気づかせてくれたことがとてもありがたいなと感じた。
ただ、その飲み会では新卒で入った心優しく仕事のできる女の子がふと言った、『私の罪悪感は今までやらなかったことではなく、興味を持てない/そこに対する意義がわからない罪悪感』という一言。その子は、泣きながら言った。
私は純粋に、そこまで考えられることがすごいなと思った。どうしても興味を持てないことも私もよくある。なんで必要とされているところに興味が持てないんだろうと思うこともよくある。でも、その気持ちをしっかり相手に伝えられることがとても価値のあることだなと感じた。本当に芯が強く、自分が納得するまでしっかり考えられる子。
私が同い年だった頃とかパッパラパーやったで。笑
彼女は興味がないのに行動だけ行うことに意味があるのかと感じている様子だったが、私はむしろ気持ちがなくてもその行動をするということがとても大事だと思っている。その分葛藤はもちろん増えるが、その行動を見た人が何かを感じる可能性もあるかもしれないし、自分が行動をおこなっていく過程で変わっていく気持ちももちろんあると思う。
そして、もう一個大事なことは相手の立場にたつこと。たとえ伝えた相手がその行動ができなくても伝えること、感じてもらうこと、も大事。行動は強要するものではないということ。
必ずしもそれができる場面だけではなかったり、過去にも未来にも色々な事情を抱えている人がいるから、そこに対して何かをしなかったから良くない/悪いという感覚を持つのは本当に危険なことだと思う。
それこそ今回のことでいうと(一緒にいた人たちはそんな人ではないが)じゃあ慰霊碑で手を合わせる人=正義で、手を慰霊碑で手を合わせない=悪いじゃんみたいな考えに自分がなってしまうと、それは怖いことだなと思う。
色々な価値観を共有し、そこに対して考えられていない、行動できないかも、という人の意見も許容する。伝わる人に伝えればいい、というマインドでいないと、伝える側も伝えられる側も疲れてしまう。
自分の意見の伝え方と、価値観の共有をすることの大事さを改めて痛感した日だったな。
とりあえず、私は継続することにしよう。