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百人一首の右近の純粋な心を信じたかったし、今も信じられる
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな
右近(38番) 『拾遺集』恋四・870
現代語訳
忘れ去られる私の身は何とも思わない。けれど、いつまでも愛すると神に誓ったあの人が、(神罰が下って)命を落とすことになるのが惜しまれてならないのです。
この和歌に初めて触れたのは、小学校低学年の時。
家にあった“漫画で解説!百人一首“みたいな漫画にハマっていて(綺麗で可愛いお姫様の絵に惹かれて読み始めた記憶)、一番お気に入りの和歌が今も昔もこれだ。
当時抱いた感想は
「「「なんて純粋な心なんだろう!!!」」」
という心からの感動だ。
(当時「純粋」という言葉を知っていたかは分からないが大人の言葉で言うとそんなかんじ)
自分はフラれて悲しいのに、自分のことよりも相手の身を案じる。相手の幸せを考えられるなんて!と心を打たれたし、ずっとそう思ってた。
しかし大学生になり、大人向けというか巷にある百人一首解説本を読んでみると、子供の頃の感動を打ち砕くようなことが書いているではないか。
この和歌に込められた想いは「恨み」だということが。純粋に彼の身を案じているのではなく、皮肉で「神への誓いを破って私を忘れたのだから、命落とすかもしれないのよあなた」と歌っているということが。
純粋にびっくりした。
そして、いやいやそれはこの解説者の見解だろう〜と他の解説本も読んでみれば、この皮肉が日本文学界の共通認識ではないか!あらびっくり。
(最近の解説本を読んでいないので、2024年時点の風潮はわからないけど。でも先程検索したサイトにはまた少し違った解釈もあって面白い)
それでもなおしばらくは、これだから大人は😮💨右近の純粋な心を皮肉と捉えるなんて🙃と、なおも受け入れなかった。
でもだんだん、これが大人の世界か〜と思えてきた。
だって考えてみれば私も、フラれた相手の幸せを願えるような恋愛がしたいな、そんな心を手に入れたいなと思いながらも、そんな恋愛多分したことないもん。フラれた相手のことを散々心の中で貶した経験、大アリです🙋♀️
だけど、それでもやっぱり「相手の幸せを思う心」「人の役に立てる人」「一緒にいるだけで人の心を嬉しくできるような人」に憧れ続けるし、この憧れって小学生の時からあったんだなと、このnoteを書きながら気づきました。人の役に立てる人って、「相手の幸せを思う心」あってこそだと思うもん。
思えば藤井風の「ガーデン」もそういうことだもんな。
右近が本当は何を思っていたのかはわからないけど、
かつての幼い私の解釈を大切にしていきたいなと思う次第です💕