カープダイアリー第8475話「限りなく透明に近いドジャーブルー、剛腕の証明ロサンゼス編」(2023年12月27日)

1・85の素晴らしい数字で防御率のタイトルを手にする黒田博樹さんの、2006年シーズンラスト登板はわずか4球で終わり、生涯唯一のセーブがついた。

だが、ただのセーブではない。2004年の球界再編で存続が危うくなっていたカープ球団と、カープファンに手を差し伸べる、それもまた「剛腕」の使命になっていた。だから「男気」という表現が使われるようになったのだろう。

5月にFA権を取得したエースに対して「FA宣言か?」「阪神移籍濃厚」「巨人か?」の新聞報道が先走る中、黒田博樹さんは11月6日、衝撃の残留宣言をして会見でこう語った。
 
「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」
 
「全国に12しかプロ球団はないんです。その中のひとつが広島県にある。僕も県民、市民です」
 
「住んでいる土地に球団があるのはすごいこと。僕自身がカープの大きさを感じています。そして、僕らのやるべきことも…」
 
「もう1回、選手も考え直して強くならないといけない。そしてファンの人の力は大きい。スタンドを見れば、選手は燃えます。ファンの人はもっと選手に訴えて欲しいと思う。(残留宣言の決め手となった10・14と10・16の旧広島市民球場スタンドは)想像を超えていた」
 
「正直、ガラガラの試合もあるけれど、集まる時は集まるんです。パワーを感じます。みんなカープが好きなんだ、と…」
 
広島に来てちょうど10年目の一区切り。おそらく残留か否か、最後まで迷っていたはずだ。「黒田さん、FA宣言しないでください」。当時はまだファンが自由に出入りできた大野二軍練習場で小さな女の子からそう言われた(親に言わされた?)黒田博樹さんは真顔で「それは分からないよ」と答えたという。
 
そのオフ、マーティ・ブラウン監督の紹介もあり、ロサンゼルスで右肘のクリーニング手術を受けた。2007年の“立ち上がり”を心配する声もあったが、同年3月4日のオープン戦登板で楽天打者のバットをへし折って見せた。

このころになると「ファンサービス」改革に取り組むカープ球団の努力が目に見える形で実り始めてもいた。街中に「CARP」の文字が溢れるようになったのだ(今では当たり前のことではるが、当時はそうではなかった)。

そして3月30日の京セラドーム大阪。マウンドに上がったのはやはり「5年連続開幕投手」の剛腕、だった。

この年、背番号15(2016年オフに永久欠番)が、旧広島市民球場のマウンドに上がったのは9月27日のヤクルト戦が最後になった。132球完投勝利。それでもチームは5位ヤクルトに「2差」の最下位という状況だった。エースの最終成績は26試合、179回2/3を投げて7完投、12勝8敗、防御率3・56。

この年の11月、当時「新球場」と呼ばれていた現在のマツダスタジアムの建設工事が2009年春の完成を目指して始まった。

同じ11月5日、スーツ姿のエースは旧広島市民球場内の球団事務所を訪ね、FA宣言した。

そして「剛腕の証明」の舞台は広島からロサンゼルスへと移った。2008年4月4日午後7時過ぎ、(日本時間5日後前11時過ぎ)、敵地のサンディエゴでメジャーデビュー戦のマウンドに上がり見事、初勝利を掴み取った。

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