カープダイアリー第8502話「広島野球130年…戦前の河川敷球場で三次中vs日彰館中、その歴史は広商、広陵より長い、三次プロ野球伝続編Ⅶ」(2024年1月23日)
強い冬型の気圧配置が続き、広島県北地域は予報通りの積雪となった。安芸太田市、北広島市、安芸高田市には夜になって大雪警報が出された。安芸高田市に隣接する三次市内の幹線道路も、雪で思うようには走れない状況となった。
雪景色の馬洗川河川敷。三次市営球場の名残である、堤をそのまま活用したコンクリートスタンドも真っ白…
カープがセ・リーグに新規加入した1950年、この地でプロ野球公式戦が初めて開催されたが、実は戦前から球場は存在した。ただしバックネットはなくかなり簡易な施設ではあった。
では、誰のための球場だったのか?
三次中(現三次高)と日彰館中(現日彰館高)の定期戦などが行われていたという。
この手の話をしようと思えば、広島スポーツ100年史から俯瞰する必要がある。
明治時代(1868年~1912年)、要するに日清・日露戦争(1894・95年と1904・05年)以前の時代まで遡る。なぜか?広島スポーツが「軍都廣島」の発展とともに日本一、世界一にまで上り詰めたから、だ。その時代を「スポーツ王国広島」と呼ぶ。
日本に野球が入ってきたのは明治5年(1872年)と言われている。広島まで鉄道が開通したのが日清戦争直前の明治27年(1894年)で、東京や横浜からの情報、イコール野球ほかスポーツが広島まで伝わるには時間を要した。その頃の広島スポーツは古来の武道、軟式庭球、それに漕艇などから盛んになった。
戦争とスポーツ…。文部省は大いに体育を奨励する訓令を同じく明治27人に出す。対象となったのは当時の中学運動部だった。
盛んになったのは銃剣道、漕艇、そして蹴球、野球…
広島スポーツの先駆者として知られているのは広島中(現国泰寺高)だ。サンフレッチェ広島のチームカラーは紫だがそれは国泰寺高のスクールカラーから取った。
広島県で最も早く野球会(部)ができたのは広島中で、明治22年(1889年)頃のことであった。同じ頃、広島師範(明治7年・1874年学校創立、現広島大学)でも野球が行われ、両者は蹴球(サッカー)でも草分け的存在となった。
驚くべきは広島中から遅れることわずか4年、明治26年(1893年)には、三次から宗山塁の実家がある三良坂を過ぎて、その先の吉舎にある日彰館中にも野球部ができたことだ。県内ナンバー2の歴史を誇る。
福山中(現誠之館高)は明治28年(1895年)創部でこれがナンバー3。それに続くのが広島商(校名は変わらず)で明治32年(1899年)に、さらに三次中に明治35年(1902年)に野球部ができる。
周囲の野球熱に刺激を受けた?広陵中(現広陵高)にはやや遅れて明治44年(1911年)に部ができる。ただし、「技術の拙稚なる理由で」庭球と野球を合わせた「球術部」としてのスタートだった。
広陵は大正15年(1926年)の第3回センバツ大会で初の全国制覇を成し遂げる。それからもうすぐ100年になるが、昭和、平成、令和と時代が変わっても常に強豪校として高校野球界の先頭に立ち、多くのプロ野球選手を輩出し続けている。