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低レベルな「バーベンハイマー騒動」とその対極にある「バービー」という作品の洗練

 本来、作品自体とは全く関係のないことなのだが、日米双方で騒ぎとなってしまったので、露払いの意味も含めて「バーベンハイマー騒動」についてまずは触れようと思う。

そもそもは全米における「バービー」とクリストファー・ノーラン監督の最新作「オッペンハイマー」が7月21日に公開日が重なり、この2作が「揃って」大ヒットとなったことからネット上で悪ふざけが人気となったことが始まりだった。少女のおもちゃの代表格である「バービー人形」を実写映画化した「バービー」と、「原爆の父」と呼ばれ、マンハッタン計画を主導して原子爆弾の開発を行ったロバート・オッペンハイマーの半生を描いた「オッペンハイマー」は、その作品の質が真逆のものであるにもかかわらず、「同日公開」で「大ヒット」という共通項が際立った印象を与えたため、両者のタイトルをかけあわせた「バーベンハイマー」という言葉が生まれ、この言葉を画像化したものとしてバービーと原爆のキノコ雲を組み合わせた様々な「悪ふざけ画像」が作成されてネット上で拡散された。唯一の被爆国である日本の国民であり、原爆による犠牲者と被爆者のその後の過酷な人生の軌跡を知っている日本人からみれば、この一連の「バーベンハイマー遊び」は不快なものだったし、結局のところ「原爆を落とされた国」という当事者以外にはピンとこない感覚なのか、という現状を思い知らされた出来事でもあった。
 さて、ここまでならまだしも、この悪ふざけを米国で「バービー」を配給するワーナー・ブラザースの公式ツイッターが好意的なリアクションをしたことで騒ぎが爆発した…
 結局、ワーナーの日本支社は31日に本国に代わって日本の観客に対して謝罪し、本社に対して抗議したことを発表。本社はアメリカ時間の同日、メディアに対してこの件に関する配慮に欠けた行動を深く謝罪し、当該のツィートも削除した。

 この問題は全米でも多くのメディアが報道し、様々なリアクションで議論が白熱したし、日本では公開が未定である「オッペンハイマー」ではなく、8月11日に公開される「バービー」に対して非難が集中する結果となった。
 これらの一連の出来事が広島や長崎の人々だけでなく、多くの日本人の感情を傷つける結果となったことは誠に残念だったのだが、少なくともワーナーの日本法人のとった行動は適切だったし、これに対する本社の反応も早かったと思う。
 一方で残念だったのが、日本に対する2発の原爆投下への認識が、アメリカでは「戦争を終わらせるために必要な行為だった」というスタンスが政府も含めた考えであり、それゆえに「日本への謝罪など必要ない」という意見が定着しているように思えたことだ。
 とはいえ、では日本がこうしたアメリカの認識が変わるような努力をこれまでどれだけしてきたのか、というと、多くの疑問符が浮かぶのも事実だ。もちろん、被爆者の方々やその関係各所の努力が続いていたことは言うまでもないことなので、ここで言いたいのは「政府」と一般的な「国民」の努力だ。
 岸田総理は先のG7における「広島ビジョン」を発表し、核軍縮に向けた取り組みとして胸を張ったが、この宣言は一方で、
「我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている」
として、大国による核保有を認め、抑止力としての効果を容認している。
こうした日本政府の姿勢を見れば、アメリカ社会が「核兵器」というものについてカジュアルなノリで考える人がいるのも当然の結果なのではないかとも思う。
 要するに、今回の件でアメリカを非難するのとせめて同じ熱量で、核廃絶に向けた思いを国レベルで発信できてきたのか、というと、これは疑問としか言いようがないと思うのである。
 第二次大戦時のナチスドイツによるホロコーストについては、決定的な証言だけでなく無数の動かぬ証拠があるにもかかわらず「そんな事実はなかった」とする「陰謀論」が今でも存在するが、こうした事態に対しユダヤ人コミュニティは例えばサイモン・ウィーゼンタール・センターといったNGO団体が中心となってその都度、世界に対して認識を新たにし、あるいは改めるよう要請する努力を続けてきた。
 こういった努力を広島や長崎、そして核の犠牲者、被爆者とその家族の方々が現在までも盛んに努力を続けてきている。だがこうした「当事者」の人たちの努力の上にその他の日本人の多くが胡坐をかいてきて「何もしてこなかった」部分があるのではないかと思うのだ。
 今回、映画本編とは全く関係ないにもかかわらず「核をバカにしたバービーなんて映画は見ない!」といったザックリとし過ぎた反応が多く見られるのは本当に悲しい状況だと思う。
 「世界唯一の被爆国である日本の一員」という、原爆投下という事実に関しては誰にも非難されないという絶対的安全地帯にいる人たちが、あたりかまわず関係各所を袋叩きにして回っているというある種の地獄絵図とも言うべき醜い言動がネット上に拡散し続けている。すべては原爆に限らず、そして日米に限らず、人々の「無知と無関心」がもたらした悲劇的状況なんだと思う。

 しかしこんなデータもある。
アメリカの調査会社「YouGov」が2020年8月6日~7日に行ったアメリカ人を対象とした世論調査では、
「広島と長崎への原爆投下は正しかったか」
という問いに対し、「正しかった」と答えた人が、55歳以上では52%に達したのに対し、18歳から24歳という年齢層では25%という数字になっていた。
また、
「アメリカは日本に原爆使用を謝罪すべきか」
という問いには、「謝罪すべき」が55歳以上で21%だったのが、
18歳から24歳だと52%になっていたことを我々日本人は知っておいた方がいいと思う。

 さて、もう一方の「オッペンハイマー」に関しては、タイトルからも分かるように物語の焦点は「オッペンハイマー個人」だ。だから映画は基本的に彼の視点で描かれることになる。オッペンハイマーは巨大な破壊力を核兵器が持つことにより、それを所有している事実が「抑止力になる」と考えていた。そのため、2発の原子爆弾が実際に使用されたことには強い衝撃を受けたという。実際、彼はその後の水爆開発には公然と反対し、その結果、共産主義者の疑いをかけられて公職から追放されることになった。だから劇中では公聴会による事情聴取など、彼自身とその関係者の描写が多い。そして広島と長崎への投下や、それによってもたらされた惨状などは描かれていない。
 監督のクリストファー・ノーランはその理由について
「オッペンハイマー自身はそれを見ておらず、ラジオで知った。だからそう描いた」
と釈明している。この弁明をどう受け止めるかは人によって差が出てくるだろう。そして「投下された側」ではなく、「投下した側」にいるノーランの認識としては、こうした視点に縛られたままでいることに一定の理解をすることもできる。彼の姿勢は「多くの善良なアメリカ人」に共通するものだと思えるからだ。
 だが、唯一の被爆国の国民である日本人としては、やはり忸怩たる思いが残るものだ。先にも言及したように、アメリカ国民に「核兵器の現実」を知らしめるための努力を、日本政府はもっとしているべきだったと思うし、日米安保条約における「核の傘」に入っているという「現実」を理由にして、核兵器禁止条約への署名を拒否する「理屈」には一理はある。だが裏を返せばそれは「一理しかない」とも言えるのだ。
 安全保障がどうこうという以前に、日本には「2発の原子爆弾を落とされて数十万人もの命が失われた」という他に比較するものがない圧倒的な「現実」がある。それを軽々しく脇に追いやることは、これまでに命を落としてきた犠牲者、被爆者の人たちに対する冒涜でもある。
 話を「オッペンハイマー」に戻すと、この映画は「原爆による日本人の被害を描くこと」を目的としていないのだから、それが欠落していることを指摘して怒るのも筋違いだと思う。そしてそういった現実を描いた映画ならば1953年に製作された「ひろしま」という映画がすでにある。
 これは延べ8万人以上の被爆者が撮影に参加した原爆のむごさを最大限に描いた映画だが、日本では配給会社が軒並み配給を拒んだため、長年の間知られてこなかった曰く付きの作品だ。本来なら、日本政府が国を挙げてバックアップすべき作品だと思うが、経年変化による劣化を修復する作業とその費用を出したのはアメリカの映画会社だ。そしてアメリカの映画監督オリバー・ストーンは「この映画に衝撃を受けた。もっと多くの人が見るべきだ」と語っている。また、「ターミネーター」シリーズで知られるジェームズ・キャメロン監督が、原爆被害の実像を詳細に描こうとしたこともあった。
 では日本のメジャーな監督たちの中で、この問題に取り組もうとしている監督がどれだけいるのだろうか。かつて、黒澤明は「生きものの記録」で核兵器への恐怖を身近に描いたし、晩年の「夢」でも核の恐怖を描いていた。新藤兼人監督の「原爆の子」も忘れてはならないし、最近では濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が見事な暗喩表現で戦争と核兵器のテーマを作品の奥底に織り込んでいた。
 それでもまだ多くの日本人の間には関心が薄いと思うし、今回の「バーベンハイマー騒動」が情けないのは、単純に「誰から文句を言われずに相手を袋叩きにできる」という状況に反射的に一定数の日本人が興じているだけで、自らの無知と無関心には相変わらず無関心である、という「現実」が浮き彫りになったことなのだと思うのである。

というわけで、ここから先はようやく「バービー」そのものについて。
言葉は選ぶが、ある程度のネタバレになる可能性もあるし、映画を未見の人で、初鑑賞をスポイルされたくない方はここで読むのをストップしていただくのがいいと思う。


 言わずもがなだが、「バービー」には核兵器は微塵も登場しないし言及すらされない。
 で、予告編でも明らかにされているように、物語は
「バービーランドに暮らすバービーがひょんなことから人間社会に向かうことになる」
という展開になっている。

 ここで注目しておくべきことは「バービーランド」という架空世界の状況だ。女の子向け人形であるバービーが中心となっている世界で、そこでは毎日「何も考えずに遊んで暮らすバービーたち」でいっぱいだ。「バービーのボーイフレンド」であるケンもバービーの種類と同様に大勢いることになるが、ケンが主役の世界ではないので、彼らの扱いはすべて「二の次」となっている。

 この世界観は2つの現実世界の状況を皮肉っている。1つは「男性中心で女性が二の次」という表向きは否定されているが実際には社会常識となっている現実だ。そしてもう一つが「いつまでも何も成長せず、何も考えないで遊んでいる世代」という、実は無視できないほど一定数存在する層についてだ。近年では「風の時代」などと言って「自由に好きなことをして生きる」という考えが「新しい価値観」としてある程度の支持を受けている現実がある。こうした考えは時代ごとに名前を変えて存在をしてきたので、現実には「好き勝手生きて上手くいった人」が一定数生き残って、その生き方が「正当化」されることになるのだが、実際には「好きなことをして努力も勉強もしなかった人」はほとんどが落ちこぼれるというか、社会から不要と見なされてしまうので、「好き勝手生きるのがいいのだ!」という若者にはほぼ間違いなく「冷たい未来」が待ち受けていることになる。とはいえ、ある程度の経済状態にある国々ではこうした思想が必然的にめぐってくるものなので、ある意味、普遍的な社会問題と言えるかもしれない。
 いずれにせよ、「バービーランド」はまさに「何も考えていない人形(人々)」で溢れかえっている。

 物語が動き出すのは、その中でもマーゴット・ロビー演じる「典型的なバービー」の身体に異変が起きることによってだ。ままごとの世界では不都合など存在しないものだが、この典型バービーの日常にはおかしなことばかりが降りかかるようになる。そこでバービーはランド内の世捨て人のような存在である「変てこバービー」を訪ねる。「変てこ」は「典型」の異変は、彼女の本来の持ち主に原因がある、として彼女に現実世界に行って、持ち主の女の子に会うことを勧める…
 とまあ、ここまでがバービーが現実世界に行くまでのいきさつなのだが、普通に考えれば、「人間社会に飛び込んだバービーが様々な騒動を巻き起こして…」と思ってしまうんだけど、そこは「レディ・バード」と「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」を手掛けたグレタ・ガーウィグの監督作品だ。話はまるで予想できなかった方向へと急展開していく。この「方向転換」がもう実に見事だ。特にバービーが洗礼を受けるように目の当たりにする「現実世界に生きる人々の姿」と、それに対する「バービーの反応」が観客の心を優しくだが、確実に揺さぶるのだ。

 一連の出来事によってバービーには多くの変化が起きるし、それは現実社会に同行したケンも同様だ。そういった意味ではケンがある意味「進化」していく過程で、「ツァラトゥストラはかく語りき」が様々なバリエーションで繰り返し演奏されるのは非常に示唆に富んだ演出だし、それはインスパイアの元となった「2001年:宇宙の旅」における「サルから人間への進化」と共通するものでもある。その上で、「ツァラトゥストラ~」という曲がテーマとして訴えている「共生」という問題も物語の終盤に劇的な収束と共に描かれていくことになる。

 マーゴット・ロビーは、その「完璧な外見」からも「バービー」を演じるには最適な女優だと思えるだろうが、真の意味で彼女が適役なのはその「演技力」によってである。
 劇中で数々の刺激によって彼女には変化が起きるが、それは本来「人形」としてのバービーに対してだ。その「人形である彼女」に起きる「変化」を自然に、そして説得力をもって感じさせているのはマーゴットの実に繊細な演技によってなのだ。

 これは恐らく最大のネタバレになるだろうが、映画の終盤では彼女はもう「ただの人形」ではなくなる。その時、マーゴットの表情も、動きも、すでに「人形ではなくなっている」のである。この演じ分けはもう本当に見事だと思う。クライマックスでは立て続けに重要な出来事が起きるので、映画の表面的な面白さとは別に、実に数多くの教訓や示唆が観客の心には刻まれていくことになる。そしてバービーが下す最後の「決断」は、世界中の少女たちに対するエールであり、アドバイスでもある。
 現在、映画「バービー」は全世界で10億ドルを超える大ヒットとなっている。それは映画そのものの「極上の面白さ」によるものでもあると思う。しかし10年後、20年後には作品そのものが持つ「普遍的メッセージ性」によって語り継がれることになる映画であることも、今の時点でも確信を持って言えるのである。

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