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対象を絞ることのリスク

先日、お客さんとの信頼関係構築についての記事を書きました。

楽天家誠健さんのネタはシャレたネタでわかる人にはわかるという対象を通の方に絞ったネタであると思っています。

じつは、ぼくが今回演じるネタについて、ある対象に振った構成としていました。それは、それでおもしろいと、個人的には考えていました。

ところが、先だっての文華師匠との稽古終了後の指導では、次の稽古までに、音源を週に3,4回聴くことと、台本の整理を今一度やってくださいとのことであった。

そうすることで、格段によくなります。と言われていた。

言われたとおり、音源を聴く耳稽古をし、口稽古はすこし控えた。
1週間経ってから口稽古をしたときに、口稽古を控えるまえの感触が違っていました。

『あれ? 1週間前とちがうな』

ひっかかりが少なく、イメージとしゃべりとがスムースに合いはじめたのです。スラスラ~って感じでぼくのなかで心地よさが現れていました

と同時に違和感らしきものが湧き上がってきました。

なんだろうと違和感のことをかんがえてみると、なにやら対象を絞った構成に違和感をかんじていたようなのです。

対象を絞ると、聴き手に自分には関係ないと思われた瞬間、聴いてもらえない。ネタそのものが対象を絞っているのであればよいが、今回のぼくのネタはそういったネタではない。それをわざわざ、絞った構成にし、聴かない聴き手をつくることをしてしまっていることに気がついたのです。

落語はそもそも抽象度が高い噺が多いと思います。それは、聴き手のお客さんの頭のフィルターを通して物語りを観てもらうことが大事にしているからではないかと考えました。

であれば、対象を絞るのは、話し手であるぼくのエゴに過ぎないのではないかと思ったのです。

台本の整理はまだ始めていないのですが、この数日、結構考えさせられました。落語の奥深さをかんじています。

このところ頭を空にして米朝師匠の音を耳で味わっています。


もし刺さる根多でしたら、木戸銭歓迎です。寄席代にして、さらなる刺さる根多を仕入れてきます。