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間とは、緩みであり、魔である

落語の究極の技とは、「間」であるとぼくは考えています。

「間」が扱えるようになると、笑いを縦横無尽に展開できるに違いないと想像してまう。イメージは龍のごとく。

そんなことができればいいなと思っていても、うまく扱えないのが「間」でなんです。

落語の「間」って、身体の使い方と同じだよね~、っと身体の専門家の方が、言われてました。

・話が淀みなく続くと、聴いているほうは、息がつけず疲れちゃう
・身体の使い方は「緩み」がないとすぐに疲れちゃう

この2点が趣旨でした。

確かに、「間」がないと、聴き手は疲れちゃうし、身体もガチガチに運動してたら、「緩み」がなく、疲れちゃうなと、共通しているなと聴いていて思思うのです。

そう思うと「間」とは「緩み」であるといえるのではないか。

逆にいうと「緩み」を作ると「間」になるということか。

話し手に「緩み」がないと聴き手は疲れちゃう。「緩み」をつくるには身体を緩ませる必要がある。「間」をつくるには身体の「緩み」が重要となっているのではないかと思ったのです。

確かに、上手い噺家さんは、どこか緩いかんじを受けます。話し手が緩いから聴き手も緩く聴ける。だから、「間」が機能するのですね。

身体がこわばっていると、緩みに影響し、それが聴き手に伝わってしまうから、ウケないということにつながるのか!

といった気づきを身体の専門家の方との対話で得られました。最後に、
『でも、「間」は「魔」でもあって、恐いんだよね~」ともおっしゃてました。


リアライズ文華落語発表会のチラシです。

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いっきょう_木本 努@落語×人生キャリア開発
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