生身無理解、架空理解
目の前にいる生身の人間に対しては理解しようとしない。
けれども、架空の人物については理解しようとしている自分がいる。
この違いはなんだ。と、ふと思った。
落語の登場人物のことを理解しようと、セリフの背景を掘り下げて考えようとする半面、目の前にいる人の発したセリフには自動的に反応してしまう自分がいることに気がついた。
目の前の人が発したセリフを、一旦、掘り下げて考えてみてもよいようなものの、1mmたりとも掘り下げる発想がなかった。
違いを何か考えてみると、おもしろいかおもしろくないかが基準になっているように思った。
架空の人物のことをはおもしろく感じているのだろう。生身の人間は生々しいからおもしろく感じにくいのではないか。身内から遠ければ遠いほど架空の人物の感覚に近づき、なぜか愛らしさも感じられる。
自分の存在から遠ければ遠いほど、おもしろく、愛らしく思えるのか。近いと、煙たくなり、自分の存在から遠いと愛らしくなるのか。
つまるところ自分と相手の距離感が影響しているのかと、ゆうべ大喧嘩していた嫁と息子を見て、そう結論づけた。
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