落語は紙芝居のように覚える
先日、焼酎亭そらまめさんの落語の覚え方のスタイルについて書いた。
ふと、自分の覚え方ってどうなんだろうと振り返ってみた。
音源を確保し聴いている
台本の文字起こしをしている
声を出して音読している
以上のことは常にやっているのだけども、稽古のときには、文華師匠から「セリフが入っていない」、「セリフを追っている」と指摘を受ける。
毎日、稽古をしているのだけども、なにか肚に入っていない感があるのは確かだ。
ただ毎年、ある時期を越えると、肚に入った稽古ができるようになっていることに気がついた。
なにが、そうさせているのか。うーん。
ある時期とは、自分なりの工夫が始まったときである、と思った。
では、工夫とはどんな状態になれば始まるのか。
先日の文華師匠が塾生に稽古をつけていたとき、「セリフを追うのではなく、登場人物がどんな氣で言葉を発しているのかを想像していると、自然とセリフは出てくるんですわ」と言われていたことを思い出した。
ぼくは、落語は紙芝居のように捉えていて、場面場面における一番おもしろいコマ割りを選んでコマを噛んでふくんだようにして話すイメージでいます。
そのコマ割りの一番おもしろいと思うものがイメージできたときに画が肚に入り、画にあったセリフが吐きだされていく感じになると、稽古が俄然楽しくなり、工夫が始まることがわかってきました。
そうなると、画の中の登場人物が活きだし、氣がのった稽古となっていきます。
画がぼんやりしていると、ぼんやりした稽古となってしまうのです。なので画の解像度を上げる必要があるのですが、これに時間がかかってしまうということなんですね。
解像度を上げるには、他の塾生の稽古を観ているときに上がる傾向がある。発表会が近づいてくると各人の稽古内容が言い方や仕草、動きなど具体的な指導になっていくフェーズだからそこに刺激を受けて解像度があがってくる。ということが僕の中で起こっているようなのです。
そら、台本が肚に落ちるのには時間かかるわ、と思いました。
次の期のときからはやり方を考える必要があります。
でないと、いつもギリギリで。。。なんとか発表会に間にあうパターンとなっているので。。。稽古しよ。