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恐れの中に産まれて、「mortal(死を免れない)とimmortal(不死身の)」

第一章 「mortal or immortal」

人間は自分が不死でないことを知っている。逆に言えば、不死でいる術を識らない。

国家依存症や政府依存症もしくは陸地依存症は人間の一般的特徴である。陸地や大陸は単にプレートと言うお皿の上に載ったアイスみたいなもんなんです。陸上動物である人間は大陸や陸地が無いと生きていけない。そして今の科学技術では宇宙船一人暮らしという訳にいかない。

不死というのは単に自分が不死であると気づけばいいだけの話である。だが人間がそれに気づく可能性はほとんど無い。だから人は一人残らず例外無しに死を容認する。人間も政府も国家も大陸も実は諸行無常であるから生と死を免れない。国家を当てにしたり国際機関を当てにする国家依存症は国家に裏切られたらただ泣きわめく。
日本沈没、国家滅亡、大陸消滅、まさかそんなこと起こるわけ無い。大多数の人はそう思っているが、この世が単に3Dホログラムだったら簡単にそうした事態は起こり得る。

実際自分の死も実は3Dホログラムだから、死ぬ必要も無いと想えれば、死は簡単に消滅するのである。

来世は地獄だなと自覚している者たちは、確かに地獄に棲む。天国に棲むマインドに成ってないから天国に棲みつけない。それだけの話なのです。

第ニ章 「恐れの中に産まれて」

この世とか世界とか社会は、実はマトリックスに過ぎない。このこの世と言う容器の中に、自分が生を受けて、そのなかであれこれ活動する。そして此処は生き地獄なのかと感じたりもする。地獄で仏と出逢うことはないのでしょうか?ヤドカリは何故宿を借りるのか?カイコは何故繭を作るのか?

人間とか悪魔は、「恐れと言うマトリックスの中に」生を受け、死を恐れながら生き、死が有ることで焦り、やり遺した感の中で息を引き取る。

恐れは、自分の寿命が有限で、自分の才能や能力も有限で、地球の資源もエネルギーも有限であると言う強迫観念を棄てられない。

つまり、人間は「無いこと」もしくは「不足」を基盤にして生きている。

人類が100億人居たとしてもその全員が一人残らず、「自分は有限である」と答えるし、そう思い込んで日々生きている。

第三章 「無限とつながる」

自分とは何か?もう一度再定義してみる。自分とは無限である。自分とは意識である。意識に寿命など無い。つまり、自分は最初から「不老不死」なのである。

人間は、勘違いして自分を有限と思い込んで生きていた。そもそも自分は何故生きているのだろうか?生物だからでしょと思うかもしれないが、意識は生物では有りません。宇宙は生物では無いが「生きています」。つまり、生物であろうが生物で無かろうが、意識が有るから「生きている」。言い換えると、自分も宇宙も生命エネルギーだから生きている。そして宇宙も自分も「無限の豊かさ」なのです。宇宙も自分も「永遠存在」だから、宇宙も自分も不老不死なんです。

だから、「恐れと言う勘違い」が、自分は有限だから、命に限りがある、だから寿命が来たら死ななくちゃと単に思い込んでるだけなのです。

人の個性とは、経済的豊かさを手にしても、健康を手にしなかったりする。
自分がついうっかり病気や不健康をイメージしてしまうのです。病気の人や不健康な人に正しく健康をイメージして下さいと言ってもなかなか上手くいかない。過去のトラウマを握り締めて離さないからである。過去を断捨離することで、魂は健康を取り戻すことが可能になる。

同様に、自分は有限であると言う勘違いを手放せば、無くなる恐怖から開放され、無限者であることの安心感と安堵感、つまり死を恐れて焦る人生とおさらば出来る。

では、死とは何なのかと言うと、肉体と言う着ぐるみを脱いで、隣の部屋に行くような気軽さでいいのである。

来世では、また別の星で別の着ぐるみを着て、その生命を謳歌すればいい。

自分が心の中にイメージしたことが、自分の世界自分の宇宙としてプロジェクションマッピングされ、それを人は現実と大層げに呼ぶ。生き地獄とは、実は自分の心が映像化したのであり、自身が創造しておいて辛いの苦しいのとのたうち回る一人芝居なのです。

だから、生き地獄の造り方と天国の創り方は工程としては全く同じです。「恐れ」の代わりに「安心」を持って来れば、それでいいんです。自分とは安心であり安堵であり安楽である。何故なら永遠であり無限だからです。

人類とは、地球の資源は有限だとか、自分は死によって行く手を阻まれるとか、「勘違いしやすい生き物」、言い換えれば、うっかり八兵衛みたいな存在です。


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