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私は無条件に愛されている
第一章 「視点の移動」
悲劇のヒロインは一体何がしたかったのでしょうか?「自分は世界一不幸な人間だわ」とさめざめと泣いて、悲しみに浸る。或いは、「受験に失敗するなんて、俺って最低!」と自分を責める。
それでその哀しみに何時間或いは何日間浸るべきなのでしょうか?それとも何年間も自分を責め続けますか?つまり、これは此れだけ哀しみに浸ればOKと言った決まりなど無いのです。一生涯悲嘆に暮れても構わないし、5秒で立ち直ってもいいんです。この哀しみは何年間泣き暮らすべしと当人が各自の判断で決めていいのです。だとしたら直ぐに立ち直ってもいいんじゃないでしょうか?この事に気づけないと哀しみを長引かせて、下手すると一生を無駄にしてしまいます。5秒で立ち直ったら駄目でしょと文句言う人はいません。立ち直りの早さは早いもん勝ちなのです。これに気づけないと何時までも尾を引いてウジウジします。
自分と言う生き物は、信念体系として一つの現実を構成して居ます。この時に信念体系のベース(土台)が自己否定感だったり不足感だと、その不足感と言うマトリックスの中で生息します。例えば、勝利と敗北をエンタングルさせて生きていたとします。このマトリックスの中で勝利を得たとしても、その喜びは束の間で永続しません。直ぐにまた次の敗北がやって来るからです。
勝ち負けのマトリックス、或いは損得のマトリックスの内部で生きている時に、これは勝ち負けのマトリックスの中に居るんだわと気づけるか否か?自分が「敗北を土台にして」生きていないかどうかチェックする必要が有ります。
第二章 「帰るべき場所」
多くの人々が何れかの世界宗教の信者に成っています。皆んなで入れば怖くないからでしょうか?私は今、一人一宇宙、一人一宗教を模索中です。
多くの人間は、自分の帰るべき場所を探しています。楽園から追放されたと信じる人たちは、いつの日か楽園に帰りたいのだし、高天原から来た人は高天原に帰りたい。
シリウスから来たと信じる人はシリウスに帰ればいいし、縄文人に憧れる人は縄文時代に帰ればいい。
天地創造も「約束の地」に帰る壮大過ぎるゲームだったりして。
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第三章 「無条件の愛」
自分の本質はちっぽけな存在なんかじゃ無くて、「無条件の愛」らしいです。そして私と言う存在は「無条件に愛されている」らしい。「らしい」と言うのは、それを確かめたり証明したりしようが無い。だから「思い込みの激しさ」で単に「そう信じて」しまえはいいのです。
自分は無条件に愛されているので、他人に承認欲求を求めなくても良い。思い込むのはタダだし····。そう言う訳で、この世は最初から最高最善のマックス状態なので、他人や自分や世の中を自分の価値観で価値判断して「裁く」必要性も皆無なのです。でも価値観も価値判断も無しに生きて行くことは果たして可能なんでしょうか?と言う事は、悪人も悪魔も居ないと言う事になるのかな。
兎に角、私は「無条件に愛されている」そうです。誰に?恐らく宇宙とか創造主とかハイヤーセルフに。
「私はお金に愛されています。」と言ったりするが、お金に人格とか意識が有るのかなあ?お金って宇宙エネルギーだから意識を有していてもいいのか。
ともあれ、私は無条件に愛されているので、人生は奇跡の連続だろうし、すごく幸せなんだろうし、楽しき事のみ多かりきなんでしょう。何か虫の良すぎる話で、都合良すぎる気もするが、「私は無条件に愛されている」と勝手に信じ込むのは、私の勝手であり自由みたいなのです。
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