初笑い、初苦情、 「福の神は笑い上戸なの?」
第一章 「初詣」
泣いても笑っても年が明けてしまいました。泣き上戸で暮らしてもさして進歩は望めません。と言う訳で、笑い上戸で行きましょうか?「箸が転げてもおかしいお年頃」でも無いけど?
新年はある意味、去年までの自分を断捨離する大チャンスなのです。
初詣に行って、あれこれお願い事をする。「のんびり生きる、楽しく生きる、ノホホンと生きる、悠久の時を鼻歌交じりに生きる」、それが今年のテーマです。つまり、アクセクしない、イライラしない、焦らない、急かされ無い。でも実際問題、上司に急かされるのは避けられません、ストレス社会なのか?初詣は参拝客の多い分、願いを叶える側の神様もてんてこ舞いです。
第二章 「現世ご利益と来世ご利益」
神様は「現世ご利益」を叶えるのが唯一のお役目なんでしょうか?それとも?「来世ご利益」は願わなくていいんでしょうか?「来世も安楽でありますように!」、来世なんて有るの?勿論あります。
第三章 「笑う門には福来る」
「笑う門には福来る」、「貧乏神には不幸が来たる」、そう言う訳で、初笑いとばかり漫才や落語で笑える人は幸せなのかもしれません。でも「土突き漫才」では痛すぎて笑えないと言う人もいます。今年こそ笑い上戸になる!
私には無理かな。愛想笑いなら出来そう。とにかく笑えれば、福の神が様子を見に来てくれます。
他人に笑わして貰うようでは、未だまだ修行が足りないのかもしれません。独りで思い出し笑いしてると変な人だと思われるし。
第二章 「福の神になる」
「何時もニコニコえびす顔」、自分が貧乏神になってもしょうが無いから福の神になる事にしましょう。何時もニコニコしていれば、もう立派な福の神です。
実際、福の神たちは自分の怒りや哀しみを手放していったようです。つまり、人間や人類が落ち込む場面で落ち込みません。だって落ち込んだり、自分を責めたりしても自身の運気は上がりません。大失敗した一秒前の自分は、今この瞬間の自分とは全くの別人、つまり赤の他人なのです。でも人間界では、これは大顰蹙(だいひんしゅく)を買います。反省や謝罪を強いられ、落ち込み、自分を責め続けます。ナノ秒毎に生まれ変わる「新しい自分」、もう一切の過去が消失しています。これは多分都合の良過ぎる生き方なのでしょう。でも本当に「今しか」存在しないのです。私はそう言う世界観を採用した訳です。
第三章 「喜怒哀楽する生き物」
人間とは、喜怒哀楽する生き物です。喜怒哀楽したいし、一喜一憂したい。つまり、外界世界に対して大袈裟に反応したい訳です。ああ私は悲劇のヒロインだわと泣き喚きたい。
第四章 「喜楽な福の神たち」
福の神たちは、自動的条件反射的に喜怒哀楽せず、怒っても損だし、悲しんでもいい事無いし、もっと楽しいことは無いかと何時も探しています。類は友を呼ぶで、愉しき事のみ多かりきで生きています。それは人間から見たら、脳天気とか極楽とんぼに見えます。でも実は、意図して意識的に喜びや愉しさの方をその都度「選んで」いっているのです。偶然や運任せじゃ無くて、自分自身の意図に基づくので間違いも有りません。そりゃ良い事しか起きませんわな。