認識と創造、 「人類は何処へ向うのか?」
第一章 「世の終わり」
秩序と破壊、混乱と混沌、地球に今何が起こっているのだろうか?
コロナ禍と称して知事たちは伝統や文化の破壊に躍起になっている。知事たちが日本経済に与えた数兆円の損失を誰が補填してくれると言うのか?勿論誰も責任を取らないし、一方的に損をしたのは国民と都民で、これからも損をし続けることだろう。
人類は一体何処を目指しているのだろうか?今やっている事は矛盾と混迷の増加策であって解決へは向かわない。
世の終わり即ち「終末論」とか終末思想を信じる人もいれば、信じない人もいる。
私は世界と人類は一旦「ご破算で願いましては」となるかもしれないと考えている。例えば、今ここに意識と言うものが有ったとして、それは進化するか退化するか停滞するかの何れかしかない。それで今更退化や停滞は時間の無駄だから、退化したい意識や停滞を続けたい意識は一旦消滅する可能性がある。
では、存続し続ける意識体はどう言うものかと言うと、自身が創造主であると気づいた意識体のみだと思われる。
つまり最初から創造主しか存在しないのである。一旦世界を創造してみたけどやっぱりこの世界ってつまらないから一度ご破算にして心機一転、もっと面白いものを再創造してみたくなった。
確かに世界とか人類ってマンネリのワンパターンで新鮮味を欠く。延々と同じ事を繰り返したがる。「お前は既にしんでいる。」
第ニ章 「被造物」
神は、人間たるアダムとイブを創造した。そう聖書に描いてある。つまり、人間は「神に創られし物」だから「被造物」と言う。其処では「人間も創造主ですよ」と明言してはいない。
さて、創造主の自覚を欠いた人類は「認識」を生業とする。認識とは、現実の感知であり、「現実のコピー」に他ならない。つまり、現実が先ず先に有って、人間はその一部を不完全にコピーする。即ち現実と言う刺激に人間は感情や思考と言った「反応」をして見せる「一喜一憂存在」に終始する。
言い換えれば、人間とは、現実至上主義者です。夢と現実のどちらを重視するかと言うと、現実を選んでしまう。
それでは、夢は叶いにくいです。
第三章 「創られし物から創りし者へ」
ここでコペルニクス的転回をして、「被造物から創造主へ」とパラダイムシフトしえた者たちを「覚醒した人類」もしくは「新次元の神人類」と呼ぶことにしましょう。
第四章 「方向が逆」
創造とは、認識と逆方向のベクトルになります。認識が「現実のコピー」なのに対し、創造とは、自分の内面を外界に写し出すことなのです。似てるようで両者は全く異なる。思考が先で、現実が後になります。
つまり、人類と神人類はエネルギーの流す方向が真逆なのです。言い換えれば、人類の生き方は「不幸」であり、神人類の生き方は「至福の連続」となります。
被造物に留まる限り、地球も人間も有限であり、奪い合いと盗み合いの世界は避けられません。つまり、無限の豊かさを手に入れるとは、自身が創造者になる以外に有りません。