食うか、喰われるか
生物界は、食うか喰われるか、弱肉強食のサバイバルゲームである。そして食ったら勝ちで、喰われたら負けだ。だが、これは単に、この世に居る者から見た視点でしかない。つまり、生き残ったら勝ちで、先にあの世に行ったら負けだ。そんなこの世サイドの視点に立っても、あの世では通用しない。皆さん等しくあの世に行き、順番なんて関係ない。死は、万人平等に配達され、後から来たから偉いなんて事は無い。つまりサバイバルゲームに勝者も敗者も無く、皆さん一様に冥土に招待される。あの世に時間の概念が無いから、後か先かの順番もない。食った者も喰われた者も、等しく仲良くあの世に納まる。心と身体の二元論が嫌で、唯物の一元論にしたら、自身の魂は居場所を失った。結局、自身に魂無しと決めつけた事で、自身の永続性を見失ってしまったのである。そこには、前世と寸断された孤児としての現世しかない。文脈を失って現世は、当然無意味化せざるを得ない。食うか、喰われるかでは無くて、食うも喰われるも結局同じ事、等しくあの世に納まるだけである。生きても死んでも同じ事、意識にこの世もあの世も無い。意識にとってサバイバルゲームに勝ちも負けも無い。意識は生死を貫く連続性なのだ。だから、喰われたら喰われただし、食ったら食っただ。勝者も敗者もそこには居ない。だからサバイバルゲームに勝たなくてもいいのである。寿命が来たらどうせ死ぬ。左足はこの世で、右足を一歩踏み出せば、もうあの世で、そこに境目すら無い。私は肉体では無く、単に自分と言う意識だから、私に死は存在しない。